内村光良、還暦後初のラジオ! 『ANN』約1年ぶりの出演

ウッチャンナンチャン・内村光良さんが、ニッポン放送の人気番組『オールナイトニッポン』に約1年ぶりの出演。7月に迎えた還暦のお祝いエピソードで盛り上がりました。(ニッポン放送『内村光良のオールナイトニッポンGOLD』2024年8月30日放送分)

内村光良、還暦後初のラジオ!

ニッポン放送をキーステーションに、全国ネットで毎週金曜日22時からお送りしている『オールナイトニッポンGOLD』。週替わりのパーソナリティが登場し、さまざまな番組をお送りしています。スペシャルウィークを迎えた8月30日(金)は、ウッチャンナンチャン・内村光良さんが担当しました。

7月22日に還暦を迎えた内村さん。単独で『オールナイトニッポン』のパーソナリティを担当するのは、2023年6月16日以来、約1年ぶりです。今回も、かつてコンビで『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』(※)を担当していた金曜日の放送で、さらに「還暦後初めてのラジオ」、「30歳の時にレギュラー放送を終えてから30年」というメモリアルな放送となりました。

内村さんはオープニング早々、放送日を「2024年3月30日金曜日」と間違えてしまい、「老眼も進んでね……。"8"が"3"に見えたの、ごめん」、「のっけから間違えちった。まぁ、いいか。働いてんだもんな」とお疲れモード。この日は、朝からラジオ本番の2時間前まで『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』(NHK)の収録だったことを明かし、「私も声枯らして頑張りましたので。たくさんコント撮りました!」と、近日放送される自身の特番をPRしました。

※…1989年4月~1995年4月まで金曜1部(25時~27時)を担当。その後、復活特番として『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』(2008年2月24日)、『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』(2023年2月18日)内で放送。

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前回の特番では、内村さんの盟友・出川哲朗さんの還暦を祝うイベント「男・出川哲朗 還暦祭り in 横浜アリーナ」(2024年1月14日、以下:「出川哲朗還暦祭り」)の開催を発表し、話題となりました。「出川哲朗還暦祭り」には、総合司会を務めたウッチャンナンチャンを始め、有吉弘行さん、飯尾和樹さん、いとうあさこさん、狩野英孝さん、さまぁ~ず、三四郎、ダチョウ俱楽部、田村淳さん、ダンス☆マンさん、土田晃之さん、ナイツ、ナインティナイン、中岡創一さん、バカリズムさん、堀内健さんら錚々たるメンバーが集結し、1万2000人の観客とともに出川さんの還暦を盛大にお祝いしました。

内村さんは、「出川哲朗還暦祭り」で出川さんが矢沢永吉さんの楽曲「トラベリン・バス」を熱唱した姿が目に焼き付いたことを語ると、「なんせ背が低いもんですから、ステージから見えないんですよ。ほぼ人垣で。モグラみたいなんですよ」、「彼って、そういう運を持ってるというか」と、学生時代から40年来の付き合いならではの冗談も交えながら、大成功に終わった夢の舞台を振り返りました。

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リスナーからは、オープニングでの"ハプニング"に反応するメールが寄せられ、内村さんは「『イッテQ』(日本テレビ系『世界の果てまでイッテQ!』)のカンペとか、ほぼ自力で覚えて言ってるからね」、「字が滲んちゃってるから、勘で言ってるよ」と、老眼による悩みを告白。自身も7月に迎えた還暦については、「昔は親戚のおじちゃんが赤いちゃんちゃんこを着て、「うわぁ、おじいちゃんだ」と思ってたけどね。まさかそれが今、俺になってるとはね。信じられないですよね」と感慨深げに語り、祝福してもらった出演番組の関係者たちにお礼を述べました。

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プライベートでは『イッテQ』でも共演している、いとうあさこさん、イモトアヤコさんと中華料理を楽しんだことや、出川さんから還暦パーティーのお誘いがあったことを明かしました。内村さんへのサプライズを計画していた出川さんでしたが、内村さんの担当マネージャーが詳細を内村さんにバラしてしまい、これには内村さんも「哲っちゃんはサプライズで驚かせたいんだから(笑)。サプライズしたいのに誰が居るか、大体見当ついちゃって……」と、出川さんに同情するのでした。

パーティーには、さまぁ~ずや飯尾さん、キャイ~ン、千秋さんらも参加し、お店のドアを開けるとウド鈴木さんがクラッカーを持って待ち構えていたなど、バレバレに終わってしまった出川さんのサプライズを振り返りました。

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今回の放送は、夏の終わりの時期での放送ということで、リスナーから「夏の終わりのエモいメール」や、還暦を迎えた内村さんの脳を活性化する「脳トレ」、若い世代から支持を集めるために「10代からのアドバイス」を募集しました。

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内村光良のオールナイトニッポンGOLD
放送局:ニッポン放送
放送日時:2024年8月30日 金曜日 22時00分~24時00分
出演者:内村光良
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※放送情報は変更となる場合があります。

この記事を書いた人

radiko編集部

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戦争を知らない世代へ平和の尊さを説く─東京大空襲を生き延びた女性が語る空襲体験

戦後81年が経ち、太平洋戦争を体験した方は、本当に少なくなりました。当時、空襲を体験した小学生たちも、いまや90歳前後です。今回は、戦争の悲惨さ、平和の尊さを語り継ぐ「空襲体験者」のお話です。

東京大空襲の写真を解説する二瓶治代さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

B29による空襲は、昭和19年6月16日、北九州・八幡製鉄所から始まり、翌年の終戦まで、全国200以上の都市で続きました。中でも、昭和20年3月10日の東京大空襲は、およそ300機のB29から32万発ともいわれる焼夷弾が投下され、下町一帯は火の海に……わずか2時間半の空襲で、およそ10万人もの命が奪われ、「世界史上最大の空襲」ともいわれています。この東京大空襲の惨状を今に伝えているのが、東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。

江東区北砂一丁目にある「東京大空襲・戦災資料センター」

もともとは、東京都が「平和祈念館」の建設を進めていました。ところが、財政難から計画は凍結されてしまいます。「それではいけない」と、民間による建設の動きが始まり、4000名を超える人たちから、1億円を超える募金が寄せられました。そして2002年、民立民営の平和博物館、「東京大空襲・戦災資料センター」が開館しました。

焼夷弾のレプリカ。その構造や威力もわかりやすく展示

館内では、空襲の悲惨さを伝える写真や映像、絵画、地図、焼夷弾などが展示され、講演会やシンポジウム、特別展などが行われています。開館当時は、20人ほどの「空襲体験者」が戦争の悲惨さを伝えていました。しかし今、その数は少なくなりました。その中の一人が、二瓶治代さんです。二瓶さんの空襲体験の一部をご紹介します。

~・~・~・~

昭和20年3月10日、私は8歳で、家は亀戸駅の近くにありました。その夜、父が「今夜はいつもと違う、起きろ!」と叫んだので、私は飛び起きました。外に出ると、砂町方面が真っ赤に見えました。家族で防空壕に避難しましたが、やがて人々の叫び声が聞こえてきました。父が「ここにいたら、蒸し焼きになるぞ。防空壕から出ろ!」と言いました。私たちは線路の土手に登りました。そこから見た下町一帯は火の海でした。

燃え盛る炎がゴーッと音を立てて家々をのみ込み、人々は燃えながら走っていました。背中に背負った赤ん坊が燃え、手を引かれた子どもが燃え、転んだ子どもは、その場で火の塊になって燃え尽きていきました。やがて、土手にも火が迫ってきたので、私たちは炎が渦巻く火の海の中を、亀戸駅方面へ逃げました。その途中、被っていた防空頭巾が燃え出し、「頭巾をとれ!」と父が叫び、私はあわてて紐を解こうとしました。その時、父とつないでいた手が離れ、強い風に煽られ、私は炎の中に吹き飛ばされてしまったのです。

気がつくと、家族とはぐれて、一人で逃げ回りました。うずくまっている人が、緑色の炎をあげて燃えているのを見ました。馬が燃えながら走っているのを見ました。どこからか、「こんなことで死んでたまるか。みんな生きるんだ!」と叫ぶ男の人の声を聞きました。

私は動けず、その場にうずくまっていると、意識が遠のいていきました。明け方、私は重なり合った人たちの一番下から、父に引きずり出されました。私の上に重なっていた人たちは、真っ黒な炭になって亡くなっていました。この日、私は、生きたまま焼き殺された多くの死者たちに、命を助けていただいたのだと思っています。

~・~・~・~

二瓶さんが「東京大空襲・戦災資料センター」を初めて訪れたのは、2002年、開館して間もない夏の終わりでした。その時、センターの担当者から「当時の体験を語ってほしい」と頼まれます。「こんな私の話なんて……」と断ろうとしますが、岩手県から修学旅行でやってくる中学生50人のために話してほしいとお願いされます。

戦時中に使われていた防火用水

「東京大空襲のことは、我が子にも話さなかった」という二瓶さん。悩んだ末に、当日を迎えます。用意した原稿に目を落としたまま、20分間、顔を上げられず、空襲体験を語り終えました。「そっと顔を上げたんです。すると50人の生徒さんが全員、じっと私を見つめていたんです。身を乗り出して聞いてくれていた生徒さんもいて、ああ、戦争を知らない子どもたちに勇気をもらった……と涙が溢れました」これがきっかけとなり、二瓶さんは、今も空襲体験を語り続けています。

地図の丸印は東京大空襲の直後、仮埋葬が行われた場所

「戦争で一番の犠牲になるのは、いつの時代も、幼い子どもたちです」二瓶さんの言葉が、戦争を知らない私たちに平和の尊さを問いかけています。

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