「フォークの神様」 岡林信康、デビューから現在を語る! 特集2回目『J-POP LEGEND FORUM』

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく FM COCOLO 『J-POP LEGEND FORUM』。2021年3月の特集は、「フォークの神様」岡林信康がついに登場!

岡林信康特ご本人に、1968年のレコード・デビューから今日に至るまでの軌跡を全5回にわたってじっくりと語っていただいています。

2回目は、1969年に発足したURCレコード、その後に移籍した1973年からのCBSソニー時代。アルバムで言うと、「わたしを断罪せよ」、「見るまえに跳べ」、「俺ら いちぬけた」がURCでの3枚、CBSソニーでは、「金色のライオン」、「誰ぞこの子に愛の手を」の2枚。


田家:先週は「友よ」の話で終わっているんですが、この曲には色々な思い出がおありになるでしょうね。

岡林:あの歌ほど色々な解釈や味わいをされたことはなくて。それはある意味で歌の理想だと思う。学生運動のデモ行進の行進曲になったり、北海道のある駐屯地では隊員の愛唱歌になっていた。右と左の人があの歌を好きになってくれたし、かたや政治に興味のない若い人たちがキャンプファイヤーを囲んで歌ったり。

田家:青春の歌ですね。

岡林:俺は歌ってそういうもんやと思うし、その人なりの自由な感受性で味わって歌ってもらえたらいいと思うんだけど。でも、あんたはどちら側の人間なんだ? って言われたりして嫌になってきて、あの歌をずっと歌わなかったのよ。それとあの歌は、夜明けが来て新しい朝が始まれば、すべての問題は解決してバラ色になるという幻想がある気がして。でも、そうじゃなくて夜が明けても黄昏は来て、また夜になる。朝はまた来る。それを何回も繰り返すのが人生という旅だ、という気持ちもあったので。今回のアルバムに収録されている「友よ、この旅を」は、「友よ」の補足というか。

田家:アンサーソングのようなものなんですね。

岡林:ある人が「岡林さん、今回の『友よ、この旅を』で昔の『友よ』を成仏させましたね」と言っていて。良い言い方だと思って、使わせてもらおうかと。

■M1. 友よ 

田家:そもそもの音楽との出会いが高石友也さんがきっかけなわけでしょう。当時の出来事をどう振り返っていますか?

岡林:何か一つが違ってたら全く違った人生があったんやろうなあ、という感じやな。綱渡りみたいな。よく五体満足でここまで来たなと(笑)。たまたま牧師の息子で、後を継ぐために大学も行ったんだけどどうもわからなくなって。ある神学校の先生に会うために東京に行ったんだけど、その人がアメリカに行っていていなかったのよ。それで姉のアパートに転がり込んでたら、姉が通ってるキリスト教会に山谷の牧師さんが来て、大変面白い話をしたと言っていて。で、その牧師さんに会いに山谷に行ったわけね。牧師さんは「ああだこうだ言ってないで、お前も働け。そうしたら何か分かるかもわからん」と。そこから山谷との関わりができたんだけどね。高石ともやは立教大学の学生で、大阪の釜ヶ崎という山谷と似たような場所にいたという話を聞いて。……おかしいよな。俺は同志社大学で山谷で、彼は立教大学で釜ヶ崎で。それで彼の歌を聞かなくちゃいけないような気がして聞いたのよ。自分で歌を作って気持ちをぶつけるというのは、気持ちええだろうなと始めたのね。


■M2. 今日をこえて

田家:URCからの2枚目のアルバム『見るまえに跳べ』から「今日をこえて」。『わたしを断罪せよ』にも収録されているんですが、こちらの方はバックバンドをはっぴいえんどが務めております。URCというのはアンダーグラウンド・レコード・クラブの略称で、自主制作のレーベルでインディーズの走りです。そのきっかけになったのは、岡林さんの「がいこつの唄」、「くそくらえ節」というシングル盤がビクターから出せなかったことなんですね。フォーククルセダーズの『イムジン河』も発売中止になって、自分たちのレーベルを作って、商業主義では紹介できない歌を世の中に送り出すんだ、ということで、高石音楽事務所が中心になって始めたレーベルです。きっかけが岡林さんとフォークルだったわけで、まさに1970年代のフォーク・ロックの歴史の第一歩そのものとなった人です。

■M3. 自由への長い旅

田家:はっぴいえんどと出会うのと岡林さんが東京に移るのは、ほとんど一緒の時期なんですね。はっぴいえんどと会わなかったらどうなっていただろう、と考えたりもしますか?

岡林:はっぴいえんどというよりも、ロックをやらなかったらどうなってただろうというのはあるね。はっぴいえんどとやり始めた頃は、はっきり言って本当にウケなかったのよ。東京ではウケ出してたんだけど、東京以外は散々なもので。それとね、岡林の弾き語りならコンサート主催したいけど、ロックはいらないっていうことを言われたりもして、コンサートやってくれる人がいなくなったのよ。だから、はっぴいえんどとコンサートをやった数は本当に少ない。弾き語りの時は年に100本近くやってたんだけど、はっぴいえんどとは15本とか20本くらいで終わったんちゃう? それで毎晩新宿のゴールデン街で飲んだくれるわけだが、こんなことしてたら死んじゃうかなと思って。それが田舎に引っ込むという原因の一つだね。はっぴいえんどとのライブがウケなかった。後になってから、彼らは売れていったのよ。


田家:岡林さんと言えば、いまだにキャッチフレーズ「フォークの神様」がついていますが、そう呼ばれ始めたときのことはどう思われますか?

岡林:誰が言い出したんだっていうね(笑)。あのね、フォークの神様だからロックをやっちゃいけないんですよ。まして、演歌なんてとんでもないんですよ。そこが窮屈というか、なんか狭い檻に閉じ込められた嫌な重苦しいものは感じたな。
 

岡林:歌の神様って言ってくれるんならええよ。フォークだとそこに限定されるから。

田家:でも、松本隆さんがはっぴいえんどで岡林さんのバックバンドをやっている時に、「私たちの望むものは」を歌っている時の岡林さんを神だと思ったことがあるよ、と言っていましたよ。

■M4. 私たちの望むものは

田家:「私たちの望むものは」は、どういう状況で書いたか覚えてますか?

岡林:あれはフランスの五月革命かな? あの時の手記のようなものが出版されたんよな。

田家:壁の落書きが本になりましたね。

岡林:その時に「私たちが望むものは」というフレーズがあったのよ。そこに触発されて、俺も自分たちが望むものは? ということで書いてね。ある人から、なんで私たちなんだ、私じゃねえのかって言われてね。歌の中に私たちが望むものは、決して私たちではなく私であり続けることだって書いてるのよ。それを読まんと言うから、頭にくるわけね。

田家:なかなかあの時代を知らない人に説明しにくいところがあるんですけど、1960年代の終わりと1970年代の鬱屈とした挫折感のようなものの捌け口に岡林さんがなった場面はありましたもんね。

岡林:そういう重圧感も感じたから、あそこで一旦やめて田舎に引っ込むしかなかった。あのまま続けてたら死んでたと思うよ。


田家:『見るまえに跳べ』から「私たちの望むものは」。当時の僕らには、あたかも聖書の一節のように聴こえたのは確かです。学生運動のアジテーションなどでも、“我々は~”と皆言っていました。岡林さんが今も昔も他のアーティストに比べて唯一無比なものは生き方でしょうね。色々な音楽をやってきましたが、そこに生き方という太い幹があって、脈々と流れているものがある。時代とどう向き合ったか? どう向き合わざるを得なかったか? 政治の時代というのは1970年代のはじめに潮が引くように消えてしまいました。学生運動は、学生側の停滞、敗北で終わったわけで。岡林さんはそこに巻き込まれたと言っていいでしょう。若者たちが自分たちの思うようにならない鬱憤を岡林さんにぶつけた、という面もありました。その中で、彼は東京を引き払ってしまうんです。それが、1971年の3枚目のアルバム『俺ら いちぬけた』ですそのアルバムから「申し訳ないが気分がいい」。

■M5. 申し訳ないが気分がいい

■M6. 26ばんめの秋

田家:『金色のライオン』の松本隆さんをプロデューサーに、というのは岡林さんの希望だったんですか?

岡林:そうやね。2年くらい歌を書かずにいたんだけど、なんとなく歌ができてきて。それを当時のURCレコードの生き残りの高木くんが松本くんを連れてきてくれたのかな。俺はあの時に歌が一曲できてて、タイトルがつけられなくて困ってるんだって言って歌ったら、松本くんが一回聴いただけで「それは"26ばんめの秋"だ」って言ったの


田家:これは松本さんの記憶なんですが、『誰ぞこの子に愛の手を』を出した後に岡林さんが松本さんの住んでいた、たまプラーザに行かれて、松本さんのところに電話したんですって。駅にいるって言うから、松本さんがそこまで来たならうちにおいでよって言ったら、俺はこれから演歌に行くから松本には会えない、と言ってお帰りになったと。

岡林:あのね、俺が『誰ぞこの子に愛の手を』を作った後に突如演歌をやりたくなったやんか。松本くんのところに遊びに行った時には、「月の夜汽車」っていう曲だけ出来ていたのよ。俺が演歌やったら、松本は猛反対するやろと思っていたし、クソ味噌に言うんじゃないかと思って歌ったら、あいつがサイコーだって言ったのよ。それでびっくりして、松本プロデュースでソニーから演歌アルバム出そうかっていう話になりかけていたんだけど、その時に俺はひばりさんと出会ってしまったのよ。交流もできて、演歌をやるなら日本コロンビアしょって言われた。松本の家の近くまで行ったんだけど、俺はそれを松本に言えなくて帰った。それを電話で言うたかもわからんな。
 

田家:岡林さんが京都の綾部に引っ込んで、畑仕事をするようになって生活環境も変わり、聴く音楽も変わって、こういう音楽が好きな自分もいると思って演歌をやることになるんです。「月の夜汽車」は、美空ひばりさんが歌ってシングルにもなります。1975年、岡林信康はCBSソニーで2枚目のアルバム『誰ぞこの子に愛の手を』を作った後に、日本コロンビアに移籍して演歌をやるようになります。

続きは3/15の放送をお聴きください!

 

岡林信康特集 第1回目をお聴き逃しの方は【”読む” J-POP LEGEND FORUM】Rolling Stone Japan

J-POP LEGEND FORUM 「岡林信康」特集
放送局:FM COCOLO
放送日時:毎週月曜 21時00分~22時00分
出演者:DJ:田家秀樹、ゲスト:岡林信康
番組ホームページ

※該当回の聴取期間は終了しました。

津田健次郎「高校2年まで“大学受験がある”ことを忘れて…」受験勉強に明け暮れた高校3年生を振り返る

声優・俳優の津田健次郎がパーソナリティをつとめるTOKYO FMの新ラジオ番組「津田健次郎 SPEA/KING」(毎週日曜 12:00~12:30)。声優として数々の人気アニメ作品、俳優としても話題のドラマ・映画に出演し、今もっとも注目を集める津田のパーソナルな一面を知ることができるレギュラーラジオ番組です。
4月14日(日)の放送では、リスナーから届いた「息子との距離感が難しい」という悩みに答えていきました。


パーソナリティの津田健次郎



<リスナーからのメッセージ>
17歳の息子の扱いが難しいです。もう(親から)離れてほしいような、でも、まだそばにいてほしいような……大人として扱うにはまだ子どもで腹が立つし、子どもとして扱うには、もうかわいくない年齢。そこで、津田さんが17歳(高校3年生)のときに、親にされて嫌だったこと、うれしかったことを教えてください。

津田:高校3年の頃は大学受験に向けて勉強していたのですが、僕は中高一貫の男子校に通っていまして、高校2年まで“大学受験がある”ことを忘れていたんですよ(苦笑)。

しかも、高校受験をしてないので、あらためて中学のときの勉強をし直すという(笑)。そういう意味では全力で勉強していましたね。演劇を専攻していのですが、当時の自分にとってはハードルの高い大学を目指していたので、むちゃくちゃ勉強していました。

なので……“ほどよいメリハリ”っていうんですかね、放っておく時間をしっかり作っていただくのが良いかもしれません。そして、たまに干渉するときは「勉強はどう~?」と恐る恐る声をかけると、それも面倒くさがられたりするので、「あんた! 勉強はしているんか!? やっているんやったらええけど」みたいに思い切り声をかけてもらったほうが、メリハリも効いて(子どもも親に)接しやすいかもと思いました。


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4月14日放送分より(radiko.jpのタイムフリー)
聴取期限 2024年4月22日(月)AM 4:59 まで
※放送エリア外の方は、プレミアム会員の登録でご利用いただけます。

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<番組概要>
番組名:津田健次郎 SPEA/KING
放送日時:毎週日曜 12:00~12:30
パーソナリティ:津田健次郎
番組Webサイト:https://15audee.jp/articles/news/arzGScruNeYzMYs9hC6vN9xF

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