山梨出身の元陸軍大尉・田中徹雄は満州国皇帝実弟の妻をいかに救出したか
渡辺麻耶が木曜日のDJを担当するFM FUJIの番組『Bumpy』(毎週月曜~木曜、13:00~18:50)。8月14日のオンエアにフリージャーナリストの松田宗弘さんが出演し、山梨出身の元陸軍大尉、田中徹雄について解説しました。
松田:今日は、今年が太平洋戦争終戦から80年ということで先月放送した、山梨県出身の元陸軍大尉、田中徹雄さんの中国戦線の話の2回目です。山梨新報の「戦後80年の記憶」という連載企画の8月15日付の記事の解説です。
麻耶:田中徹雄さんを取材された経緯から改めて伺えますか。
松田:田中さんは、復員後、当時の天野久知事に請われ、山梨県庁に入り、1964年(昭和39年)から3年間、副知事を務めました。1918(大正7)年2月生まれで、ご存命なら107歳ですが、79(昭和54)年に61歳で病気で死去されました。取材の経緯は、山梨新報社がご親族から田中さんの伝記本制作を依頼され、それを私が担当し、終戦80年の節目に、今回、新聞とラジオで、発刊に先行して取り上げました。伝記本の発刊は今年度内の予定です。
麻耶:記事を拝読しました。日本の敗戦で、中国軍から追われた満州国皇帝の実弟の妻で、天皇家の縁戚、嵯峨侯爵家の令嬢の愛新覚羅・浩(あいしんかくら・ひろ)さんと次女の嫮生(こせい)さんを、上海の中国軍軟禁先から、田中さんが救出された、まるで映画のようなお話ですね。
松田:そうなんです。時代背景説明をしますと、1931(昭和6)年、満州に進軍していた日本軍の管理下にあった「南満州鉄道」の爆破事件(柳条湖事件)を機に、日本は満州国を独立させ、中国清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅・溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を満州国皇帝に据え実効支配しました。その実弟の溥傑(ふけつ)に政略結婚で日本から嫁いだのが嵯峨侯爵家令嬢の浩です。夫婦は二人の女の子に恵まれたが、1945年8月の日本の敗戦で、満州国にいた皇帝一族は一転、追われる立場になりました。溥儀・溥傑はソ連軍に拘束され、夫たちと別行動だった浩・嫮生は、約一年の逃避行の末、中国国民党軍に拘束され、上海に軟禁されたのです。
麻耶:田中さんは、浩・嫮生さんにどのように関わったのですか。
松田:田中徹雄は太平洋戦争当時、中国戦線で七万人の中国兵を無血帰順させるなど大活躍し、終戦後は軍や民間の中国在留邦人の日本送還業務を自ら志願し、46年春ごろから、「上海連絡班」でその任に就きました。流暢な中国語、豊富な情報量と中国愛、中国人ネットワークを、日本人送還の仕事に役立てようと考えたからでした。その過程で、浩・嫮生の母娘が中国国民党軍に戦犯として逮捕されたという情報が入ってきたのです。
麻耶:それで救出・奪還を決意したのですね。
松田:はい。当時、中国在留日本人の日本への送還の最終期限は46年12月28日。このチャンスを逃すと日本に帰れないため、田中は27日夜の救出決行を決意しました。下調査をしていた田中は、当夜、中国服姿で厳重な警備を突破し、母娘の部屋に現れました。浩に「私を信用してついてきてください。ここさえ脱出できれば、あとはどうにかなります」と告げ、一緒に脱出しました。田中は連絡班の数人と連携し、中国軍司令部から別格扱いだった日本軍参謀長の住居に母娘を匿(かくま)い、翌日、引き揚げ船で佐世保に向かいました。このあたりのことは、ノンフィクション作家の本岡典子さんが、中央公論新社から今年7月に出版した「新版 流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生」に書かれています。
麻耶:田中さんの「中国兵の七万人の帰順の完遂」「浩さん、嫮生さんの母娘救出」は歴史に残る偉業ですね。そこから、見えてくるものについて松田さんはどうお考えですか。
松田:15日付の記事の最後に、田中さんの養女の深沢さん(伝記本の発注者)のコメントを書いています。「無血帰順も救出も命がけだったと思いますが、根底には、他者への愛、人間愛、国や生まれが違っても『同じ人間じゃないか』という『自分の命に勝る真に深い愛情』があったのだと感じます」というお話でした。七万人の帰順では、田中は戦闘前線の中国軍トップの心を動かしました。「丸腰でやってきた」「銃口を向けたら、動じることなくサッと敬礼した」。田中の行動が、中国軍の心を動かし、互いに心が通じ合った瞬間でした。私は実は、紛争、戦争の回避のきっかけは、こんなところにあるのではと考えさせられました。個人の喧嘩でもそうですが、何かのきっかけで“心が通う”。それが“対立を回避する知恵”ではないか。簡単なことではありませんが…。
Xハッシュタグは「#ダイピー」(月)、「#ばんぴーのとも」(火)、「#てるぴー」(水)、「#ばんまや」(木)
※該当回の聴取期間は終了しました。
