キンタロー。×水曜日のカンパネラ・詩羽が対談! ものまねを伝授、「本気になったら勝ち目ない」と語る理由とは?

水曜日のカンパネラ 詩羽がナビゲートするJ-WAVEの番組『MASSIVE HISTORIA』に、ものまねタレントのキンタロー。が登場。ものまねの原点を語り、詩羽にものまねを伝授する場面もあった。

ここではその模様をテキストで紹介する。オンエア日は5月25日(土)。radikoのタイムフリー機能で2024年6月1日28時頃まで再生可能だ。

再生は2024年6月1日28時頃まで

「ものまね四天王」はドンズバ世代

キンタロー。は、いきなり詩羽のものまねをしながら登場。スタジオが笑いに包まれるなか、さらにキンタロー。は詩羽のものまねをたたみかけた。

詩羽:私が2人になるって、人生でなかなかなかったのでありがたいです。服の感じもポップなのが私っぽい感じがしていて。

キンタロー。:詩羽チョイスでやって来ました。

詩羽:メイクもいつも私がいつもやっているアイラインをやってくれたり、口のピアスも表現してくれて。

キンタロー。:ピアスがなかったから描いてる。経費削減。

ここで、ものまねの歴史をさかのぼる。諸説あるが、日本でものまね芸が始まったのは江戸時代後期。舞台に出てくる歌舞伎役者をまねたもので、それが有名人ものまねの起源と言われている。昭和初期にコメディアンの古川ロッパが人の動きやしぐさをまねるものを形態模写、声をまねるものを声帯模写と名付けそれが広がり、ものまねが世に広がっていった。

1980年代には、人気番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)に出演した片岡鶴太郎が近藤真彦や小森和子のものまねで脚光を浴びることによってエンターテインメントとして確立していった。

その後、時代が進むと「ものまね四天王」と呼ばれる、コロッケ、ビジーフォー(グッチ裕三・モト冬樹)、清水アキラ、栗田貫一が一世を風靡する。

キンタロー。:私は1981生まれだからものまね四天王はドンズバ世代ですね。

詩羽:私は分からないですね。そもそも私、ものまねに詳しくないから。

キンタロー。:まさかコロッケは食べるものと?

詩羽:コロッケさんは分かりますよ。

キンタロー。:ビジーフォーはわりと洋楽系の歌のものまねをする感じだし、清水アキラさんはすごくお尻を出しがちだし、セロテープ芸で鼻を上げがちで、コロッケさんは四天王の中の不動のセンターと言っても過言ではない方ですね。

ものまねタレンの代名詞となったコロッケは2016年に唯一の特徴をデフォルメする独特のパフォーマンスが評価され、日本芸能大賞を受賞している。

詩羽:すごい!

キンタロー。:コロッケさんの島倉千代子のものまねは知っています?

詩羽:分からない……。

キンタロー。:(島倉千代子のものまねをするコロッケをまねるキンタロー。)歌っているうちに首がどんどん曲がっちゃうっていう芸を見せつけられて、幼い私は、島倉千代子さんってこんなに面白いんだって思って。ワクワクしながら本人を見たら、首の動きをやらないって。五木ひろしさんはロボットじゃないんだとか、そういうことなんですよね。
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ものまねの原点は「身内を笑わせること」

キンタロー。は遠い記憶をたどり初めてのものまねを思い返すと、両親が浮かんだという。

キンタロー。:(最初にやったのは)お母さんとかお父さんとか、一番近くで見ている人のものまねですよね。日常生活で気になった瞬間があって、「お母さんが毎日これやるよね」っていうのが、一緒に暮らしていると出てくる。それを妹と共有したいってところから始まったんです。妹に「お母さんが、朝絶対にやる咳を聞いてくれる?」って言って、それのものまねをやったら「分かる!」って言われて「でしょ!」って。そのしぐさを共有したくて。「じゃあ、お父さんのくしゃみも聞いてもらえる?」「グフォン!」「分かる!」っていうところから始まりましたね。

言葉のエピソードだけではなく実際のしぐさや声を表現して、より明確にその姿を相手に伝えたいという思いがあるとキンタロー。は言う。

キンタロー。:妹が「分かる!」って笑って、私も笑いが1個増えてうれしいみたいな。身内を笑わせることが幸せってところですね。

詩羽:それが始まりだったんですね。

キンタロー。:この話は初めて言ったかもしれないですね。

詩羽:テレビはものまねをするだけで、そのことについて深く話すことはないですから。

ものまねと音の関係

キンタロー。のものまねのレパートリーを訊かれると、数え切れないと答えた。

キンタロー。:もし、ものまね芸人になったとして、どんどんものまねをやる身になって考えると、レパートリーって数えないですよね。「レパートリーに詩羽ちゃんのものまねが増えた」とはやらないから。結局、何個やれるか分からないけど、222……ニャンニャンニャンって言ったらかわいいかなと思って、222個って言ってる。

詩羽:詩羽のわかりやすいクセってあるんですか?

キンタロー。:歌を歌うし、リズミカルだから独創性のあるリズムで日常のセリフすらも会話しているなって(思う)。水曜日のカンパネラの『エジソン』が発売になったときに、詩羽ちゃんは自分でプロモーションを頑張ろうって思って、「詩羽がもっとテレビで歌えるようになるためにもっと応援してね」っていうのを、詩羽ちゃんなりに「みんなのティカラ(力)が必要なんだよね!」って言っていて、なるほどって思って。

詩羽:ホントですか(笑)。

キンタロー。:(「力」を)ティカラって。

詩羽:本当か嘘かも分からない(笑)。

キンタロー。:それはものまねの餌食になっちゃう。特徴的なことをすると、ものまね芸人というハイエナが寄ってきますね。

その後、キンタロー。はリスナーからの質問に、アンミカや北大路欣也のものまねで答えていった。

キンタロー。に促され、詩羽もアンミカのものまねをしてみることに。

キンタロー。:さすがリズムの子。ものまねってリズムなんですよ。詩羽ちゃんはリズミカルだから、すぐいろいろやれちゃうかも。

詩羽:確かにものまねって音の部分もありますよね。声の出し方ってわりと音で聴いてやるみたいな感じだから。

キンタロー。:詩羽ちゃんが本気になったら勝ち目ないですね。

詩羽がものまねに挑戦…その結果は?

番組後半では、J-WAVEのナビゲーターがあるものまねをしている音源を流し、それが何かを当てるクイズを行った。

LiLiCoはディジュリドゥという楽器、サッシャもパンダの鳴き声のものまねを披露。マニアック過ぎて戸惑うキンタロー。と詩羽。あまりに難しいものまねだからと、今度はサッシャが『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ)のナレーションでお馴染みの滝口順平のものまねを披露した。

詩羽:私もものまねできるようになりたい。どこかで急に「ものまねやってください」って言われる日が来るかもしれないから。

キンタロー。:ライブで意図せず間が空いたときとかにやったら、違う詩羽ちゃんを見てみんなが喜んでくれると思う。

そこでキンタロー。が詩羽に、アニメ『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日)のものまねを伝授する。

詩羽: YouTubeとかのMVとかのコメント欄とかでも、しんちゃんの声に似ているって言われるんですよね。1回挑戦したことがありますね。

キンタロー。:それをやってもらってもいいですか?

詩羽:できないよ(笑)。オラ、しんのすけだぞ。

キンタロー。:何か違う何かが。(ここでレクチャーをするキンタロー。)

詩羽:オラ、しんのすけだぞ。

キンタロー。:おお、すぐよくなった。やっぱりものまねの才能も絶対にある。こんなにすぐよくなる人もいないですよ。素晴らしい。

詩羽:音の感じを今キンタロー。さんがやってくれたので(理解できた)。ものまねって音だと思っているので。

キンタロー。:詩羽ちゃんの普段の話し声を聞いていたら、ジブリの女の子がよぎって。詩羽ちゃんのテンポとリズムのままで、それをものまねしただけでジブリになると思います。

ここで詩羽がジブリ作品の登場人物のセリフをものまねしてみると、キンタロー。は「ジブリだ!」と驚き「私がジブリの関係者だったらすぐにオファーしますね」と褒めちぎった。

他にもキンタロー。はアニメ『サザエさん』(フジテレビ)のカツオのものまねを詩羽に伝授し、早々に詩羽が習得。「詩羽ちゃんが普通の女の子だったら弟子にしたかった」とキンタロー。は舌を巻いた。

キンタローは自身の公式サイト「キンタロー。のちちぷ.com」では、キンタロー。のものまねキャラクター図鑑も掲載している。キンタロー。の最新情報は、公式サイトまで。

「森羅万象」をテーマに、知っているようで知らなかった歴史や情報を楽しく学ぶ、カラフル歴史バラエティ。オンエアは毎週土曜24時から。
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亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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