母・樹木希林に「捨てられたんだ…」とショックを受けた思い出とは? 内田也哉子が明かす

J-WAVEの新番組『DIALOGUE RADIO-in the Dark-』(ナビゲーター:志村季世恵/板井麻衣子)。この番組は、暗闇のソーシャルエンターテイメント『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』を主催するバースセラピストの志村季世恵が、暗闇のバーに毎回ゲストを迎え、一切、光のない空間で語り合います。

2月10日(日)のゲストは、内田也哉子さん。故・樹木希林さんの娘としても知られる、文筆家、俳優、音楽家です。また、3児の母でもあります。


■多忙な母…アメリカへのホームステイに

母子家庭で育った内田さんは、母・樹木さんが多忙であったこともあり、「ストレートな愛情は受けていないかも」と、樹木さんとの思い出を振り返ります。樹木さんと親交があった志村が、「恥ずかしくてあまり愛情を伝えることができなかった」と樹木さんが話していたことを明かすと、内田さんは驚いていました。

さらに、樹木さんの愛情表現について、内田さんが小学校3年生のときにニューヨークの田舎町で1年間ホームステイをしたときのエピソードを交えて、こんな話を明かしてくれました。

内田:「留学」なんて、そんなすごいことをしてるとは自分で思ってなかったです。当時、母が女手ひとつで育てていて、なおかつ朝の「連続テレビ小説」とかやってたときかな? とにかく忙しそうだなっていうのは、はたから見てもわかっていた状態でした。通っていたインターナショナルスクールの校長先生がアメリカ人で、私が鍵っ子なのをかわいそうだと思ったのか、「私の弟家族がアメリカにいて、子どもが3人もいて大家族なんだけど、一緒に遊びたい? そこに行きたい?」みたいに言われて、真っ先に「行きたい!」と言って、次の週くらいに全部決まってました。
志村:早いね!
内田:もしかしたら母にはもう話していて、「本人が行きたかったらいいんじゃない?」って校長先生と話していたのかもしれない。その真相はまったくわからないままだったんだけど。


■樹木さんと音信不通に…なぜ?

そうしてはじまったホームステイ。ニューヨークへ向かう際は、飛行機を乗り継ぎ、内田さんを送ってくれた樹木さん。滞在先の家族に挨拶をし、「近所にいっぱい子どもたちがいるから紹介するね」と言われ、内田さんが外出している間に、もう樹木さんはいなかったと言います。

志村:けっこうショックじゃない?
内田:ショック(笑)。「捨てられたんだ……」って思ったもん。
志村:そう思っちゃうよね。
内田:でもそれよりも、周りに子どもたちが増えて、きょうだいが増えて、友だちもいっぱいいるような楽しい暮らしに飢えてたから。私は、小学校低学年のときにはもう学校から帰ってひとりで鍵を開けて、家でずっとひとりで絵を描いてた。おもちゃを買い与えられなかったから。何してたんだろうって今でも思う。そういうわりと孤独な子ども時代から、めくるめく「これがアメリカのハッピーファミリーだよね」みたいな幸せな家族に引き取られた。けっきょく母からは1年間まったく手紙も電話もなかった。
志村:すごいね。
内田: 1年間経って「帰るよ」って言われたときに泣いて泣いて、「絶対に日本に帰りたくない!」って言ったくらい。
志村:ファミリーの一員だったんだね。
内田:なんで音信不通にしてたのかって、母の友人が聞いてくれたときに「自分もつらかったから、1回声を聞いちゃうと、子どもにもその思いが伝わっちゃう。だったら1年間って決まってるんだから、向こうの家庭に預けて、一切連絡をとらない」って。ちょっと潔癖症的なところがあるかもね(笑)。
志村:樹木さんも決意してたんだね。だって、樹木さんは愛情いっぱいの、情が深い方だったじゃない。
内田:そうかもね。出し方は普通とちょっと違うけどね。
志村:そうね。でも愛情が溢れるくらいにあった方だから、それくらい覚悟しないと揺れちゃうもんね、きっとね。
内田:だからたぶん、遊びに行ってるときに「じゃあね」も言わずに帰っちゃったんだと思う。
志村:そうだよ、きっと。

母・樹木さんとの思い出をたくさん語ってくれた内田さんでした。

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【番組情報】
番組名:『DIALOGUE RADIO-in the Dark-』
放送日時:毎月第2日曜日25時−26時
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/dialogue/

菅井友香、振付家TAKAHIROと当時の思い出を語る!

サントリー生ビールpresents『菅井友香の#今日も推しとがんばりき』のゲストにダンサー・振付家のTAKAHIROが登場し、菅井と出会った時の印象からグループ最後の楽曲「その日まで」についてまで菅井との思い出を語った。

-TAKAHIRO「菅井さんは不器用なんです」-

菅井とTAKAHIROの出会いは2016年。欅坂46のデビュー曲「サイレントマジョリティー」の振り付けの時だったという。TAKAHIROは当時の菅井について、「菅井さんはいっぱい練習する子でした。いっぱい練習しましたね。『不協和音』の立ち方だけでとか、手の引っ張り方だけで、一時間ぐらいずっとやっていた」と当時のことを振り返った。

また、リスナーからの質問で菅井のグループ時代の最後の楽曲「その日まで」の振り付けにどんな意味を込めたのかについて問われたTAKAHIROは、「あの楽曲は全部が逆再生されるように作ってあったんですが、でも、過去のことだけではなく今の菅井さんが表現できることを大切に、前に進んでいけるように。菅井さんはいっぱい背負ってきましたので。だからそのリュックを一回置いて、ただただ走って風を感じられるように。そういう思いを込めて、振り付けをさせていただきました」と語った。

そんな「その日まで」はミュージックビデオの撮影中に釣りをしている人を待つために一時撮影が中断されることもあったという裏話も語ってくれた。

さらに、リスナーから菅井のパフォーマンスに関する裏話を聞かれたTAKAHIROは、「菅井さんは不器用なんです」と断言。しかし、その不器用さ故の長所があると語った。「不器用だけど、努力するという力を持っていた。感覚でみんながやれるところを努力で全部補おうとする。だから本当にその瞬間を任せたときに、ある程度までは要領のいい人が勝つんだけれども、そこから先の努力でもっと深めることができるから、ステージに立った時に誰よりも輝く瞬間がある」

菅井は、その様にやり遂げられたのはTAKAHIROの存在が大きかったと語り、「少年のような大人でずっと誰より近くにいてくださった」と当時TAKAHIROに感じていたことについて振り返った。

その他、「キミガイナイ」の振り付けについての話やTAKAHIROが櫻坂46の振り付けを考えるうえで一番大切にしていることなど、様々な話が語られた。そちらについては是非タイムフリーで

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