作家・村上春樹さんがディスクジョッキーをつとめるTOKYO FMのラジオ番組「村上RADIO」。11月3日(火・祝)は、特別番組として『村上RADIO「翻訳夜話」スペシャル~音楽で仮定法を学ぶ~』をオンエア。今回は早稲田大学国際文学館の開館5周年を記念し、10月1日に小野記念講堂で開催された公開録音イベントの模様をお届けしました。
盟友である翻訳家の柴田元幸さんを迎え、進行役の坂本美雨さんとともに「音楽で仮定法を学ぶ」をテーマに白熱の翻訳談議を展開。ビーチ・ボーイズやエディット・ピアフなどの名曲に乗せて英語表現のニュアンスを紐解いたほか、方言・スラングの訳し方やAI時代における翻訳の未来、参加者からのQ&Aまで、言葉と文学の魅力が詰まった贅沢な時間となりました。
この記事では、この記事ではオープニングトークと、前半2曲について語った内容を紹介します。
(写真左から)坂本美雨さん、村上春樹さん、柴田元幸さん
日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学生や高校生でいっぱいだった。 緑は「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問した。 「できると思うよ」と僕は言った。 「そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」 「日常生活の中で何かの役に立つということはあまりないね。でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」
村上春樹『ノルウェイの森』(一部抜粋)
<坂本美雨が朗読>
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こんにちは、村上春樹です。村上RADIO、今日は翻訳家の柴田元幸さんをゲストに迎えて、都の西北、早稲田大学小野記念講堂から、約200名のオーディエンス(聴衆)を前に、公開録音でお送りします。番組前半のテーマは「音楽で学ぶ仮定法」というものです。
どうしてまた仮定法なのか? 僕は英語の仮定法って、昔からけっこう好きなんです。仮定法の用法って、のみ込むのがなかなかむずかしくて、多くの人がここで英語学習にくじけてしまうみたいです。「仮定法過去完了」とか、名前からしてなんか面倒です。そんなものとあんまり関わりたくないですよね。でもそこを堪(こら)えて、いったん仮定法を身につけてしまうと、読むことでも、話すことでも、書くことでも、英語がいちだんと深くなってきます。ほんとうに。嘘じゃなくて。
<オープニング曲>
Donald Fagen「Madison Time」
というわけで、今日は仮定法を用いた音楽を聴きながら、英文翻訳の第一人者、柴田先生のご指導のもと、みんなで楽しくしっかり英語のお勉強をしようじゃないか、という企画を立てました。しかし、こんな大胆なことが実行できるのは、民間商業放送の世界ではたぶんこの「村上RADIO」くらいではないでしょうか。自分で言うのもなんですけど、なかなか貴重な番組なんです。
仮定法を使った音楽って見回してみるとかなりたくさんあります。僕と柴田さんが知恵を絞って、おおよそ半分ずつ選曲しました。さて、どんな曲がかかるでしょう? そして、仮定法はうまくみなさんの身につくでしょうか? どうかお楽しみに。
◆Édith Piaf「Hymn to Love (“Hymne à l’amour”)」
村上春樹(以下、村上)こんにちは、村上春樹です。
柴田元幸(以下、柴田)どうもこんにちは、柴田元幸です。
村上)この早稲田大学・小野記念講堂は定員が200名ちょっとなんですけど、参加申し込みは3,800何通ありまして、かなりの倍率で今日ここに来られた方はラッキーであるかもしれません。本当は日本武道館であればよかったんですけどね。でも武道館で英語の勉強というのもね、ちょっとあれですし……。
柴田)前にアメリカのマサチューセッツ工科大学で講演なさった時、僕は客席にいましたけど、あの時もやっぱり超満員でたくさんの人を断らなきゃいけなくて。村上さんその時はフェンウェイパーク(野球場)でやればよかったですねって言ってました。
村上)よく覚えてますね(笑)。というわけで、これから順番に音楽をかけていってその仮定法の使い方について柴田さんのご講義があります。まずは柴田さんの選曲からいきますね。
柴田)はい1曲目はエディット・ピアフの「愛の讃歌」です。「愛の讃歌」といえば、フランス語だったらもちろんエディット・ピアフ、日本語だったら越路吹雪、英語だとブレンダ・リーの歌が一番スタンダードなんですけども、今日聴いていただくのはエディット・ピアフが英語で歌ったバージョンです。彼女のフランス語なまりの英語も楽しんでいただければと思います。
<エディット・ピアフの曲が流れる>
柴田)はい、エディット・ピアフが英語で歌う「愛の讃歌」でした。ところどころフランス語のなまりがあって、それが逆に味わい深い感じもいたします。仮定法絡みで話すと、まずいちばん初めに、「仮定法」と普通の「直説法」との違いをごく簡単に整理しておくと、例えば日本語だったら「雨が止んだら行きます」。これは直説法的な言い方ですけど、「もし私が君だったら行きますね」。これだと現実とは違うことを仮定しているので、英語の仮定法に近いわけです。
この二つが日本語だと「行きます」で同じになるけど、英語だと「If it stops raining, I will go.(雨が止んだら行きます)」「If I were you, I would go.(もし、私が君だったら行きます)」となり、「I will go」と「I would go」というふうに時制がずれる、それが直説法と仮定法の違いということですね。
それで、今聴いていただいた「愛の讃歌」の英訳は、最初から応用問題みたいで申し訳ないんですけど、両者がごっちゃになっている例が出てきます。真ん中の後ぐらいで「If one day(もしいつの日か)we had to say goodbye(私たちがさよならを言わなきゃならなくなったら)」。ここは、そういうことがありえないと思う気持ちから、「we had to」というふうに仮定法過去になっているわけですね。で、ちょっと飛ばして、その後半は「In my heart(私の心の中に)You will remain(さよならを言わなくちゃならなくなっても、あなたはいつまでもいます)」。ここのところは、ピアフははっきり「in my heart you will remain」というふうに仮定法じゃない言い方をしてるんです。
村上)wouldじゃないんですね。
柴田)wouldじゃないんです。だから、この直説法と仮定法っていうのが結構混じったりもするということを、最初から例としてお見せしたんですけれども。ここにポイントが二つあるとしたら、一つは、そんなに厳密に考えなくていいです、っていうこと。もう一つは、でもやっぱりよく見てみると、どっちが仮定法過去になっていて、どっちが直説法になっているかというのは、ちゃんと意味があると思うんですね。つまり「If one day we had to say goodbye」。ここは要するに、さよならを言いたくない、言いたくないから、ありえない仮定としてhad toというふうになる。一方、いま村上さんがおっしゃってくださったように、「In my heart you will remain」の方は、これは「絶対あなたは私の心の中に残ります」っていう……。
村上)willのほうがインパクトが強いわけですね。
柴田)そうなんですね。「would remain」にすると、これあくまでも仮説ですから、と言ってるみたいな感じがするわけですよね。だから、ごっちゃになるのには、それなりの根拠みたいなものはあるだろうと。
村上)しかし、仮定法の歌って結構大げさなものが多いですね。ありえないことを言うわけだから「空が海に落ちても、星がみな色あせても」なんてね。
柴田)特にこの「愛の讃歌」は極端ですよね。この英語バージョンは実はまだマイルドで、元のフランス語の原詞は言えないですけども、「あなたのためなら私は泥棒もします」とか、結構過激なことを言ってるんですね。
◆Ella Fitzgerald「If I Were A Bell」
村上)じゃあ次に行きます。次は僕の選曲ですね。「If I Were a Bell(もし私が鐘ならば)」。これは「愛の讃歌」とは違って、どっちかというとコミカルな曲で、結構愉快な感じの歌です。聴いてください。
<エラ・フィッツジェラルドの曲が流れる>
村上)歌っていたのはエラ・フィッツジェラルドですね。僕はこの曲をマイルズ・デイビスの演奏で初めて知って、とても好きな曲なんですけど、これは仮定法のオンパレードですね。最初から最後まで。
柴田)教科書通りの「If I Were a Bell(もし私がベルだったら)I Wouldですね。I'd Go Ding Dong Ding Dong Ding」……。
村上)ありえない仮定ですね、みんなね。
柴田)他にも「サラダだったら」とか「季節だったら」とか……。
村上)僕、柴田さんの対訳でちょっと気になったのが、「もしも私が鐘ならばきっとリンリン鳴ってます」というところ。このベルというのはいろんなベルがありますよね。ドアベルのベルから教会の鐘まで、全部ベルなんですよね。僕ならキンコンって訳すかなって……。
柴田)ああ、そのほうがいいですね。その後Ding Dong Dingって、いかにも鐘っぽい音が出てきて、こっちはringなのでリンリンでいいかなと思ったけど、キンコンのほうが……。
村上)Ring RingとDing Dongとはちょっと違うかなという気がしたんだけど。
柴田)訳していて時々困るのは、日本語の鈴も鐘も英語ではベルなんですよ。だからベルって言葉のほうが日本語の鐘や鈴よりカバーする幅が広くて、Ding Dong Ding Dong Dingのほうは鈴ではありえない音が歌われているので迷わないんですけど、鈴だったら、たとえばティンガリンガリンとか……。
村上)マイルズ・デイビスの「If I Were a Bell」は最初にレッド・ガーランドがイントロでキンコンカーカンコン・カンコンカンコンって鳴るんです。だから僕は舌のついた、ベロのついた鐘かなというふうに思ってたんですよね。
柴田)そうですね、キンコンに直します。
村上)ありがとうございます。僕と柴田さんは大体こういう感じでお互いに啓発し合って、啓発する量は僕のほうがずっと受けてるんですけどね、(翻訳の)作業をしております。
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<番組概要>
番組名:村上RADIO「翻訳夜話」スペシャル~音楽で仮定法を学ぶ~
放送日時:2026年11月3日(火・祝) 14:00~15:55
出演:村上春樹、柴田元幸、坂本美雨
番組Webサイト:https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/