砂山圭大郎アナ、馬術「初老ジャパン」とスケボー堀米選手にインタビュー「堀米選手、最後の決めた大逆転のトリックだけ、音楽を止めたらしいんです」

8月1日(水)、大竹まことがパーソナリティを務めるラジオ番組「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送・月曜~金曜13時~15時30分)が放送。パリオリンピックの取材のためフランスにいる砂山圭大郎アナウンサーと中継をつなぎ、馬術「初老ジャパン」とスケボー堀米雄斗選手にインタビューした際の裏話を語ってくれた。

大竹「昨日の馬術のインタビューはどうでしたか?」

砂山アナ「昨日、大竹さんに言われた通り、人参を用意して」

いとう「それで2本買ってたんだ」

大竹「初老ジャパンのインタビューは馬も一緒のインタビューだと思ってたからね」

砂山アナ「そうですね。ポケットに忍ばせるとか、マイクの代わりに人参出せとか、そういう指示がありましたんで、流石にちょっとマイクの代わりに人参出すはメダリストに対してはできないなと思って、どうしようかなと思ってたんですけど」

大竹「人参出したら世界中の話題になっちゃうよね。日本のアナウンサーが」

砂山アナ「近所のスーパーで、2本人参を用意してたんですけど、いざ本人たちを迎えるにあたって4人いらっしゃるんで2本だと足りなかったなと思って。ちょっと買い足して。ちっちゃいやつがいっぱい入ってる袋にして、それをテーブルの上にずらっと並べて置いといて、一応馬が来ると思って、ちょっとおやつ代りに用意してましたみたいな」

いとう「ギャグでね」

砂山アナ「お迎えギャグとしてお迎えしたんですけど、一応ドアガチャって入ってこられて、なんだなんだ?って、ちょっと笑ってはくださいましたけど。インタビュー自体がちょっと押して始まったんですよ。本来は時間きっちり始まってきっちり返すというのがメダリストの放送のインタビューの決まりなんですけど、ちょっといろいろ諸事情があって、前が押したとかじゃないんですけど、全体的にちょっと押してきちゃったので、ちょっとここで回収しないといけないとなって、短いインタビューになって慌ただしく人参のくだりも説明だけしてインタビューに入らないといけなかったんで」

いとう「逆に恥ずかしい」

砂山アナ「和むかなと思いました~。では、インタビュー始めますみたいな、ちょっと中途半端な形になっちゃいました」

大竹「出さないで1人で食ってりゃ良かったじゃないかよ」

砂山アナ「そういう感じにすればよかったです。まぁ、でも一応写真撮る時間は最後20秒ぐらいあったんで、そこで人参を手に持って、皆さんメダル持ってという写真を写真撮らせていただいたんですね。一応、幹事の放送局の方には「いいんじゃない?」って言われてたんですけど、後で他局のラジオの人見たら、一部「いや~これはちょっと失礼なんじゃないですか?」という注意喚起がありました」

大竹「当然そういう声は上がるよね」

砂山アナ「そうですね。それはそれぞれ受け取り方あります。何が炎上するかわからないですからね、最近はみたいな」

いとう「でもいいよ」

水谷アナ「ねえ。いいと思いますよ」

大竹「日本でいつも炎上してるラジオやってますって言えばいいんだよ」

いとう「(笑)。自信を持ってね」

水谷アナ「そうそうそう」

いとう「絶対、自分が選手だったら自分のために人参を探す時間を取ってくれたって、ちょっと嬉しくないですか?」

大竹「そう。その時間がね。嬉しいよね」

砂山アナ「写真見たら選手の皆さまは良いお顔で映ってくださってるので、よかったなと」

大竹「どんなインタビューをしたの?」

砂山アナ「初老ジャパンに関しては、大岩(義明)さんという選手が48歳なんですね。大岩さんが五大会連続出場の最長老で、この方は馬術はもうマイナースポーツなんで初老ジャパンはもうありがたいというか、甘んじて受け入れるみたいなリアクションなんですけど、30代が2人いるんですよ。38(北島隆三)と39(田中利幸)。「初老ジャパンと呼ばれることに対してはどう思いますか?」って聞いたら、「僕たちはそう思ってません」というふうにはっきり」

いとう「(笑)。僕たちは初老ジャンパンではありません」

砂山アナ「線引きはここですって言われた方、最初は41歳の方(戸本一真)のところで、線引きしてたんですけど、41歳の戸本選手も「いや僕も入ってないんで、大岩さんからです」って。最終的に、初老ジャパンというか初老大岩というのが多分1番正しい表現で。合わせて初老ジャパンという」

いとう「いや面白いよね。なんか余裕と、品とあってね」

砂山アナ「いいネーミングですよね」

大竹「ごめん。まだ銅メダルを取った感想が一言も聞けてないんですけど、そこはどうなりました」

砂山アナ「いや、そこはもう本当に皆さん、いわゆる幼少期から目指してこられたんで、やっと夢が。表彰台に長い時間かかりましたねと。大岩さんに関しては五大会ですから、2008年の北京からずっと出ててようやく今回取れたので、「いやここまでかかっちゃいましたけど、本当に取れてよかったです」というのが、最長老の大岩さんのコメントでしたね」

大竹「馬が銅メダルつけてたのは、どう思った?」

砂山アナ「馬が銅メダル付けてたんですか?」

大竹「知らなかった?」

砂山アナ「知らなかったです」

大竹「馬が銅メダル付けてたんだよ」

砂山アナ「あ、本当ですか?馬はもう銅メダル取った日の夜にもうイギリスに返したんですって」

水谷アナ「そうなの」

砂山アナ「だから、メダルを取って馬にお疲れさん。良かった。ありがとう。みたいに一緒に喜びを分かち合った後に、一昨日の夜7時にもう馬をイギリスに送っちゃったので、メダル取った後もなかなかお忙しかったみたいですね」

大竹「あの馬はずっと一緒の馬じゃないっていってたよね」

砂山アナ「そうですね。馬は、ずっと皆さんと一緒にこう鍛えてらっしゃって、という馬なんですけど、例えば大岩選手でいうと、20年馬も現役ということはないので、その間に馬は変わりますということですね、馬自体は、でも本当にここしばらくはずっと同じ馬で」

大竹「そうですか。大岩さんの馬は何歳だったの?」

砂山アナ「大岩さんの馬は、ちょっとそこまで確認できてないです(編者注:MGHグラフトンストリート。拠点は英国&鹿毛の16歳せん馬。)前に1回調べて、メモには入ってるんですけど、ちょっと忘れちゃいました」

水谷アナ「だって勉強すること多すぎるもんオリンピック行くと。大変ですよ。馬の年齢まで覚えてないよね」

大竹「最後ですけど、現場でうまくいかなかったみたいなことは?」

砂山アナ「昨日、インタビューで馬術の皆さんとスケボー男子の堀込選手のインタビューをしまして、特に堀込選手のインタビューはなかなかうまくいったんじゃないかなと思ったんですけど、その後、柔道に行こうとして公式の会場をぐるぐる回ってるバスに乗って柔道に行こうと思ったんですけど、来るべき時間にバスが来ずに、柔道に間に合わないという、そういう残念なことは」

いとう「みんな分刻みで移動してるからそうなっちゃうんだね」

大竹「堀米選手はよかったね」

砂山アナ「最近は、音楽を競技中に聞くというのがルーティンだったみたいですけど、最後の決めた大逆転のトリックだけ、音楽を止めたらしいんですよね。で、イヤホンはしたままでノイズキャンセリングにしてたみたいですけど、その時は一応歓声とか聞こえてたというので、「その最後の瞬間はどういう音が聞こえてたんですか?」って聞いたんですけど」

いとう「あらいい質問」

砂山アナ「そしたら、「本当に何も聞こえてない無の状態で、なんか自分が映画の中にいるような感じでした」と。いわゆるゾーンですよね。自分がスローモーションで見えたみたいな、そんな瞬間があの最後のトリックの瞬間はあったみたいですね」

大竹「なんかオリンピックで東京で金取ってから3年間地獄だったみたいなことを言ってたね」

砂山アナ「辛かったみたいですね。やっぱり金メダルは、そういう怖さがあるんですね」

「だけど、堀米君って静かでとても良い、控えめで内に秘めた感じで、静かに答えてたね」

砂山アナ「本当にインタビューも1つ1つ丁寧に本当に誠実に、真摯に答えてくれたなあと思います」

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亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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