作曲家で茨城のラジオスター、マシコタツロウが登場。「校歌は子供の顔を見てから書きます」

10月27日の「おとなりさん」(文化放送)、午前9時台『教えて!全国☆ラジオスター』のコーナーにLuckyFM茨城放送「MUSIC STATE」(月曜~金曜午後1~4時)から、水曜パーソナリティのマシコタツロウさんが出演した。マシコさんは作曲家としても多数の楽曲を手がけている。ただし番組内で音楽を語るようなことはせず、選曲もしないという。

マシコタツロウ「(番組で)あまりミュージシャンっぽいことはしていないですね(笑)」

坂口愛美「でもミュージシャンなんです、という紹介をさせていただくと、マシコさんは2002年に一青窈さんの1stシングル『もらい泣き』で作曲家デビュー。作詞家、シンガーソングライターでもあり、私の大好きな嵐から、私が毎週お世話になっている林家たい平師匠まで、様々なアーティストに楽曲を提供……あ、(BGMに)かかってきました。たい平さんの『芝浜ゆらゆら』。大好きで、カラオケで絶対歌う!」

山根良顕「たい平さんから頼まれたんですか? 音楽の会社から?」

マシコ「テレビでいろんなアマチュアの子が出て、『プロデュースするかどうか』という札を挙げる番組があったんです」

山根「日テレの東野幸治さんの?」

マシコ「そう。その芸能人スペシャルみたいなときにたい平さんが出て、歌がいいから俺、書かせてください、と手を挙げて。そこからのご縁なんです」

山根「楽曲はいろんな人に提供しているんですね。音楽はいつからやっていたんですか?」

マシコ「小6の卒業アルバムを見ると『将来の夢:作曲家』って書いてあるんですよ。ピアノは幼稚園から習っていて、小6ぐらいで先生に『クラシックピアノ向いていない』と言われて。今更言うのか、と(笑)。『録音できるキーボードがあるから、それ買ってみたら作曲してみたらどうだ』と言われて、16万5000円するキーボードを母親が買ってくれました。そこからずっと、35年ぐらい作っていますね」

坂口「ラジオでいうと2016年に番組内の茨城弁コーナーが日本民間放送連盟賞・優秀賞を受賞。県内複数の学校の校歌も手掛けていらして、今年9月には茨城県のイメージアップを担う『いばらき大使』に任命された、茨城県が誇るラジオスターです」

山根「校歌もミュージシャンの方々が(手がけて)、それこそ、さだまさしさんたちが高校野球のときに名前が出る。学校から頼まれるんですか?」

マシコ「細かく言うと教育委員会なんですけど、学校側から頼まれることが多いんです」

山根「学校の雰囲気も知らなきゃいけないでしょう?」

マシコ「取材に行きます。子供に会いますよ。子供のキャラも学校によっておもしろいほど違います。『この子ら、このメロディ歌わないだろうな』『こんな明るい曲歌わせたくないな』『あえてしっとりした校歌に』とか。意外とオーダーメイドになるというか、子供の顔を見てから書きます」

「MUSIC STATE」(水曜)では『マシコの青なじみ』という、茨城弁でメールを読むコーナーが人気で、10分ほどの枠でありながらスポンサーが2社ついているという。

マシコ「ここ(マシコの青なじみ)のためだけに(公開生放送の)観覧に来るだけがいるんですよ(笑)。休日は200人とか」

山根「コーナー名の『青なじみ』というのもよくわからないんですけど……」

マシコ「標準語だと『青あざ』なんですよ。ぶつけて、打ち身とかで出る。ミュージシャンだから、それまで斜に構えて『(低音で)マシコタツロウの……』とかやっていたんですけど。このコーナーを始めたらすべて失うかもしれない、あざのように残ったらどうしよう、くらいの気持ちで始めたコーナーなんです。ミュージシャンって格好つけたい感じがあったけど、茨城弁ガンガンでやったらどうなるだろう、と思ったら、大好評でした」

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亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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