元毎日新聞オリパラ室長・パリ五輪の「隠れた快挙の裏側」を語る

日本勢が金メダル20個を含む45個のメダルを獲得するなど盛り上がりをみせたパリオリンピックが閉幕した。かつて東京大会で毎日新聞社のオリンピック・パラリンピック室長を務めた山本修司氏が8月16日、RKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演し、あえて日本がメダルに届かなかった団体球技、特にサッカーに焦点をあててパリ大会を総括した。

団体競技で日本は「92年ぶりの快挙」

私が現在勤務している毎日新聞出版は今日(8月16日)、パリオリンピック総集編のムック本を発売しますが、表紙は悩んだ末にやり投げの北口榛花選手にしました。そんな中でなぜサッカーの話かということですが、北口選手も含めていろんな競技で「海外で活躍する選手が増えてレベルが上がった」と分析される場面が多い中で、私はそんな単純な構図ではないことをお知らせしたいと思ったわけです。

団体球技は振るわなかったと思われがちで、確かにバスケットやバレーボール、サッカーなどが期待された中でベスト8が最高でした。それでも、実は全ての団体球技に、日本は少なくとも男女どちらかは出場を果たしています。比較するのはどうかとは思うのですが、これはホッケーと水球の2競技のみが行われた1932年ロサンゼルス大会以来ということで、ある意味92年ぶりの“快挙”だったのです。

Jリーグ発足で裾野が広がった日本のサッカー

そういった意味では、日本の球技はなかなかのレベルということですが、団体球技の中で私はサッカーで選手も審判も指導者も経験したので、オリンピックが終わったこのタイミングで、例としてサッカーを取り上げます。

日本サッカーはいまでこそ、当たり前のようにワールドカップやオリンピックなど国際大会に出場していますし、入賞やメダルを期待されるまでになり、選手も優勝や金メダルといった目標を口にしています。

ですが、私がサッカーを始めた半世紀前には、1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを取った実績はあったものの、その後オリンピックになかなか出場さえできない、ワールカップに至っては出るのが夢のまた夢といった時代でもありました。

日本のサッカーの転機は何と言ってもプロのサッカーリーグ、Jリーグの発足です。1993年のことですが、それまでの企業主体ではなく、地域主体でクラブを運営していく形になっており、プロチームを頂点に、ユースやジュニアユースのチームを持ち、小さいときから体系的に高度な練習をする形が出来上がりました。

また多くの選手がヨーロッパや南米などサッカー先進地に渡って活躍するようになり、そういった選手が日本代表を形成するから強くなったのは間違いないのですが、私が指摘したいのはそこではないんです。

ユースや強豪といわれる学校に入れない普通の子供たちが、レベルの高い練習をできる環境になり、サッカーの裾野が想像以上に広がったことが大きな要因になったと考えています。山の頂点は裾野が広ければ広いほど高くなりますので、トップレベルに至らない大半の子供たちがレベルを上げたことが、今のように日本のサッカーが欧州などに迫る高さの山を築いたと私は思うのです。

D級ライセンスでも習得する本場のメソッド

…などと偉そうに言っていますが、私が持っている指導者の資格はD級ライセンスという、最も手軽なもので、講習さえ受ければ誰でも受かるものです。この上にはC~A級、そしてプロを担当できるS級とありますが、実はこの最下級のD級でさえ、内容は欧州などで普通にやってきた中身の濃いものです。

指導面でも重要なことを教わります。昔は小学生のチームでも失敗をすれば罰として走らせる、とにかく点を取られないようにボールを前に蹴っておく、などということが普通に行われていました。ボールを蹴り始める5歳くらいから小学生の年代はゴールデンエージといって、ボールを扱う技術を身につける年代です。「即座の習得」などというのですが、子供にとってすぐに技術を習得できる宝物のような時間で、体力なんて後からでも付けられるのです。

D級の講習会では、こういったことも教わりますし、技術面でも、なかなか口で説明するのは難しいのですが、ボールを受けるときに攻める方向の視野を確保できるように回り込むようにして止める「グッドボディシェイプ」、ほかにもアイコンタクト、相手と目を合わせて意思疎通を図りながらパスを交換するとか、ヨーロッパのクラブチームが通常してきたようなメニューが入っているんです。

D級は必ずしもサッカーをやってきた人ではなく、子供がサッカーチームに入ったからコーチ役を引き受けたなどという、普通のおじさんも少なくないのですが、要は、こうした普通のおじさんがヨーロッパで長年積み重ねてきたようなメソッドを曲がりなりにも実践してそれなりに理解して、地域で子供たちに教える態勢になっているということが重要です。

審判ライセンス取得者に届くFIFAからの通知

よく休日に河川敷をランニングしているときに子供がサッカーの試合をしているのを目にするのですけど、言葉は悪いですが裾のレベルでもこうした基礎ができており、そこが底上げされて頂点、つまり日本代表といったトップチームはより高みに行ったわけです。そのトップ選手は世界の超一流のリーグ、チームでもまれるわけですから、より一層レベルは上がっていったということになります。

これは審判にもいえます。子供の試合に行くと、自分たちの試合の後に別の試合の審判をすることがよくあり、「後審(あとしん)」などと言うんですが「どうせ審判をするなら」と、一日の講習で取れる資格を取る人が少なくありません。実はサッカーの場合、国際組織であるFIFA(国際サッカー連盟)から、ルールの改正などがあると直接通知が来るんです。

実際には、FIFAがフランス語で出した通達を日本サッカー連盟が日本語に訳して、各審判に通知するという形なのですが、いずれにしてもサッカーの審判は世界で一つにつながっているんです。「このあいだFIFAから通達が来たんだけど」なんて、なんかちょっとカッコいいですよね。

おそらく、他の球技もいろんな努力の末にいまのレベルにあると思いますので、その進化の過程を見れば、競技の発展にも役立つと思いますし、これから始まるパラリンピックもより楽しめるのではないかと思います。

◎山本修司(やまもと・しゅうじ)
1962年大分県別府市出身。86年に毎日新聞入社。東京本社社会部長・西部本社編集局長を経て、19年にはオリンピック・パラリンピック室長に就任。22年から西部本社代表、24年から毎日新聞出版・代表取締役社長。

立川生志 金サイト
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週金曜 6時30分~10時00分
出演者:立川生志、田中みずき、山本修司
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※放送情報は変更となる場合があります。

亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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