突然の南海トラフ臨時情報…阪神・淡路大震災の取材を回想しながら考える
阪神・淡路大震災の現場で
阪神・淡路大震災から、1月17日で30年。私は当時28歳でしたが、鮮明に覚えています。新聞社に入って雲仙・普賢岳災害に遭遇して、25~28歳の3年間は現地に住み込みました。被災者とともに暮らすのが日常でした。1995年に、阪神・淡路大震災が起きて、ヘリコプターから撮影した、燃えている神戸の街並みの映像を見て、「この下でどんなことが起きているのか」と、災害報道に携わっていただけに心が震えるような感じになりました。
最初に土地勘のある記者が現地に入って、2週間ほどして私たち第2陣が取材に入りました。「あなたは被災者の避難生活を知っているから、その現場を見た人間がこの被災地をどういうふうに見るか、ルポを書いて記事にしてほしい」と指示されました。
阪神電車もまだ神戸市東灘区で止まっていました。市中心部の三宮駅(中央区)まで普段は20分くらいで行けるんですが、青木(おおぎ)駅から1時間半くらいかけて歩かなければならない状態でした。
青木駅から北に10分くらい歩いたところにあったのが、神戸市立福池小学校でした。1月末当時、約800人の被災者が学校にいました。壊れた家の柱や板を燃やして、暖を取っていました。地震発生から2週間経っているのですが、まだそういう状況でした。学校には一番多い時、1900~2000人いたそうです。
小学校は「まるで野戦病院」
福池小学校の先生には大変お世話になりました。上田美佐子教頭が話をしてくれました。
・学校は3日間、孤立状態だった。
・教員30人のうち、若い女性教師1人が亡くなった。自宅が全半壊した教員は9人。生徒は3人、保護者1人が犠牲になった。
・けが人は続々と運び込まれてきた。遺体も運ばれてきて、理科室の机の上に安置した。次々に運ばれてきて、生活科の教室にも安置した。学校まで着いて亡くなる人、保健室で息絶えた人もあり、19人の遺体が安置された。
・「生き埋めの人を救い出す道具を貸してほしい」と近所の人が押しかけてきた。あるだけの道具を渡したが、中には図工室のガラスを割ってのこぎりを持ち出す人もあった。切羽詰まった様子を見ると、止めることはできなかった。さながら野戦病院のような様相だった。
2日後の1月19日になって、電気がついた時、校内の空気が全く変わったそうです。暗闇が去って1人1人の顔が照らし出されると、期せずして歓声があちこちから上がりました。「あの光が、生きる勇気を湧き立たせたんです」と、上田先生は話していました。
翌20日には、トイレが大変なことになっていました。避難してきている女性たちが手袋をして、手ですくって全部外に出して。男性は校庭の一角を掘って仮設トイレを作りました。上田先生が「あの時のお母さんたちは、ものすごく偉かったです」と言っていたのは、30年経った今でもはっきり覚えています。
上田先生がまとめた震災直後の福池小学校3日間の記録は、神戸市教委『阪神・淡路大震災と神戸の学校教育』(26~28ページ)に掲載されています。
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/eqb/0100055609/
避難生活を手伝いながら取材
今では考えられないことかもしれないですけれど、避難所の取材で仲良くなった方がいて「今日は夜どうするの? うちに泊まりなさい」と言われたことがありました。「うち」とは、体育館の中で家族5人で暮らしている、段ボールで区切られたスペースです。10代後半~20代の娘さんが3人いました。ぎゅうぎゅう詰めですけど、家族の中で寝させてもらいました。
一晩に使えるお湯は一家でやかん3杯だけでした。その方が夜中、焼酎のお湯割りを作ってくれました。生のキャベツがあって、「これをつまみにすると、意外と甘くておいしいんよ」と。
福池小学校には、安否確認をするために自転車が20台ほど寄付されていました。2週間経っていたので、安否確認はすでに終わっていて、自転車は使われていませんでした。教頭先生が「神戸さん、取材に使ってください」と言ってくれて、私はその自転車を借りて神戸市内をずっと走り回りました。
取材の合間には、食事の配給を手伝いしました。みんな、温かい食事がとにかく欲しかったのですが、やっと温かいものが出始めたばかりでした。そのとき、ジャムパンの山を見せてもらいました。差し入れられたものですが、寒すぎて凍っていました。ジャムが凍ったパンは、とても食べられません。「こんなに溜まっちゃってるんだけど、誰も手つけてくれなくて、どうしようもなくて」と被災者の方が話していました。そりゃそうですよね。とにかく寒かったです。
30年ぶりの再会を約束
学校に避難していない近所の人たちは「学校に行けば何かある」と訪れます。校内の住民は自治組織を作って、一生懸命みんなに分けようとします。私もその手伝いをずっとしていました。しかし、「早くしてくれ」「こっちは1時間も待ってるんだ」なんて罵声が飛んだりすることもありました。
でも、罵声を受けているは、被災者なのです。地震災害はそこら中でいろいろな人が被災していて、自分たちで立つしかない。「誰かが助けてくれる」ということはなく、自治組織を作るしかない。「空襲の後の現場」のような印象を強く持ちました。
一方、いろいろな人たちの人間的な優しさも、たくさん見ました。家から離れられないおじいさん、おばあさんのところに、学校の被災者がすいとんを持って配りに行くのを手伝いに行きました。被災者の人たちが「学校にいる人だけが温かい食事をとれるだけではまずい」と考えたのです。そして、学校の先生がバックアップする。「ああ、ここまでみんなするんだ」と。その現場に、僕は2週間いました。「人間って、ここまでやれるんだ」と思いました。
1995年に『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(ジャストシステム刊)という本を書いた時、阪神の取材に私は1章を費やしています。現在は『雲仙記者青春記 新米記者が遭遇した、災害報道の現場』と改題して、全文をネット公開しています。
https://note.com/kanbe67/m/m7b35a97cf3ae/hashtag/83841
たまたま昨日(1月13日)、地震の前に、久しぶりに福池小学校の先生と連絡を取ったら「いつかお会い出来ないかなと思っています」と言われました。毎年8月に、当時の保護者と教員で集まっているのだそうです。「会合でも神戸さんのことが語られています」と聞き、うれしくなりました。近々、神戸に行って、当時の福池小学校の先生や避難していた皆さんとお会いしたい、と思っています。
◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。毎日新聞入社直後に雲仙噴火災害に遭遇。東京社会部での勤務後、RKBに転職。やまゆり園事件やヘイトスピーチを題材にしたドキュメンタリー映画『リリアンの揺りかご』(2024年)は各種プラットホームでレンタル視聴可。ドキュメンタリー最新作は、ラジオの『一緒に住んだら、もう家族~「子どもの村」の一軒家~』(2025年)で、ポッドキャストで公開中。
※放送情報は変更となる場合があります。
