戦後80年…台湾への対応で分かれる広島と長崎の原爆忌

毎年8月、広島と長崎で開催される原爆忌は、戦争の悲劇を伝える重要な式典です。今年は戦後80年の節目にあたるが、両市での式典における台湾への対応が分かれている。東アジア情勢に詳しい、元RKB解説委員長で福岡女子大学副理事長の飯田和郎さんが、6月2日のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』でコメントしました。
広島市の新たな方針
これまで各国要人や駐日大使らを招待する形式をとっていた広島市は、日本政府が国家として認めていない台湾を招待していませんでした。しかし、今年は招待状を送る形式から、外交ルートのある国・地域すべてに案内文を発送するスタイルへと変更しました。
この変更により、初めて台湾の代表が平和記念式典に出席できることとなり、台湾外交部(=外務省)も参列に前向きな姿勢を示しています。台湾政府は、東京に大使館に相当する代表処を置いており、広島を管轄する大阪事務所が式典派遣の窓口となります。
長崎市の対応とその波紋
一方、長崎市の鈴木史朗市長は台湾の参加について、「該当しないので、対象にはならない」と説明しています。長崎市は、日本に大使館などを置く国や地域、または国連に代表部がある国(38か国)に招請状や案内状を送る基準を設けており、台湾はいずれの基準にも「該当しない」との判断です。この決定に対し、台湾外交部は遺憾の意を表明しています。
同じ被爆地でありながら、台湾への対応が分かれたことには、長崎市が中国と歴史的に縁が深く、市内に中国総領事館があるといった地理的・歴史的背景も影響している可能性があります。
在外被爆者の存在
被爆者の中には、当時仕事や学業のために日本に滞在し、被爆後、台湾に戻った人々もいます。彼らは「在外被爆者」と呼ばれ、日本政府は国籍を問わず被爆者健康手帳を交付しています。
昨年(2024年)ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に関する報道では、長崎の爆心地から700メートルで被爆し、奇跡的に生還した台湾出身の医師、王文其さんの事例が紹介されました。
王さんは日本統治時代の台湾に生まれ、長崎に留学していました。爆風で飛ばされたものが顔や胸などに当たって重傷を負い、同僚らに助け出されたといいます。王さんは戦後、台湾に戻り、内科医院を開業し、2015年に96歳で他界しました。
「同じ場所におった方々が全滅。私が生き残ったのは奇跡です」。王さんが記した被爆者健康手帳の申請書類には、日本語でそう書き残されています。
長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)では、台湾出身の医療従事者18人が被爆死したことも判明しており、王さんの長男は、父が毎年8月9日に被爆の体験を語り継いでいたと話しています。
厚生労働省によると、2024年3月現在、在外被爆者は2388人おり、台湾の存命する在外被爆者は10人未満とされています。原爆投下から80年が経過し、被爆の悲惨な歴史を知る人々は減り続けています。
台湾だけではありません。在外被爆者で最も多いのは、朝鮮半島出身者で、ほかにも戦後、南北アメリカへ移住した被爆者も多数います。
今回の広島と長崎の対応の違いは、それぞれの市の判断に基づくものですが、原爆投下によって犠牲になった台湾出身の先人を悼む思いや、被爆がその後の人生に与えた影響を深く考える機会を与えます。世界中で戦争や紛争が続く今だからこそ、改めて平和の尊さをかみしめることが重要です。

◎飯田和郎(いいだ・かずお)
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。2025年4月から福岡女子大学副理事長を務める。
※放送情報は変更となる場合があります。