80年前の惨劇を13歳少女が証言…福岡大空襲のリアル

第二次世界大戦末期、日本の主要都市は空襲、つまり民間人も殺害する無差別爆撃にさらされました。その被害を受けた都市のひとつが福岡市です。「福岡大空襲」から間もなく80年となる中、当時13歳だった女性からの証言を、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長が6月17日放送のRKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』で報告しました。
今も戦火が絶えない世界
今日(6月17日)の朝刊を見ると、イスラエルとイランの攻撃の応酬が大きく報じられています。朝日新聞の1面トップは、13日の交戦開始以降に224人が死亡し、その9割以上が民間人だったとイランが発表したという記事です。爆発の下に一人一人の人間がいると考えると恐ろしくなります。
一方、読売新聞では1面トップで「戦後80年 昭和百年 沖縄」という連載が始まっています。「鉄の暴風 家族のむ」「犠牲 おばあが おじいが」という見出し。80年前のちょうど今、沖縄戦は悲惨な状況になっていました。
6月23日に組織的な戦闘が終わったことで「慰霊の日」となっていますが、まさにその直前。惨劇が繰り広げられ、沖縄戦での戦没者数は日米合わせて20万人と言われています。
統計を見ると、沖縄県民は軍属を除く一般県民で9万4,000人とあります。これは1944年と1946年の人口の差を考慮し、犠牲者を推計した数字です。はっきりとは分からないわけですが、20万人のうち半数近くが一般県民でした。民間人を巻き込んだ戦争が、現在も、そして80年前にも行われていたのです。
福岡大空襲を生き延びた少女
福岡大空襲は終戦の年、1945年6月19日の夜に起きました。あさっての夜がちょうど80年目にあたります。米軍の戦略爆撃機B29が200機を超える大編隊を組み、有明海から佐賀県の背振山頂を越え、福岡市の上空に侵入してきました。空を想像してほしいのですが、200機以上が深夜11時過ぎから約2時間、住宅密集地に焼夷弾をばらまいたのです。
福岡市中央区の簀子(すのこ)地区は、被害が激しかったところです。6月15日(日)、旧簀子小学校跡地の隣にある圓應寺(えんのうじ)で「福岡大空襲戦災死者慰霊祭・80年忌」が開かれました。参列者の中に、入江住子さん(93歳)がいました。当時13歳、高等女学校の生徒でした。
入江住子さん:1945年6月19日の晩、父親が「今日の空襲は絶対普通じゃない、みんな起きれ、起きれ」と言って。いつも防空頭巾を首に巻いていましたけど、寝る時は枕の代わりにして寝ています。私が4歳くらいの時に母が半身不随となり、寝たきりでおりました。それで父親が男帯で母をおんぶして、姉と妹と4人、お父さんお母さんと逃げました。一番大きい布団の四隅をみんなで抱えて、母を父がおんぶしたのを守って浜まで来ましたが、その時にはもうお布団がどこにいったか分からないようになっていました。
入江住子さん:防空壕が3つくらいあったんですが、全然入れなかった。「母だけ、どうぞ入れてください、足だけでも頭だけでも入れてください」と。ちょうど6月で防空壕は水浸しだった。膝の上くらいまでの水の中に入って、父親と子ども4人はもう防空壕に入れなくて。
入江住子さん:照明弾で言うんでしょうか。空がもうすごく明るく、蟻が這うのが見えるような明るさになるんです。そうしたら焼夷弾がすぐ落ちてくる。落ちてくる時に、バチーン、バーンと音がして、焼夷弾を束ねたベルトが外れるんです。明るいから、焼夷弾が家にどんどん突き刺さって落ちていくのがもう本当に分かって、身動きができない。いつ当たるか、いつ落ちてくるか、そればかり見ていました。
入江住子さん:箱崎(現在の福岡市東区)の方から飛行機がどんどん、「もうぶつかるんじゃないか」というくらいの数で来るんです。姪浜(現在の西区)の方に飛行機が行ったと思ったら、また姪浜の方からまたこっちに来て帰りも焼夷弾、焼夷弾。今考えてみてもどうして私が生きておられるのか、不思議で。うちの家族は少しもやけどを負っていなかったんです。夜が明けるとともにみんな倒れているのが……防空壕に入ってなかった人がたくさん死んでいました。
13歳の少女が見た福岡大空襲の様子ですが、「防空壕は水浸しだった」「照明弾で明るくて蟻まで見えるくらいだった」など、本当にリアルです。200機以上の大編隊が頭の上を往復して飛び交い、焼夷弾をずっと落とし続けていた。朝起きたら、不発の焼夷弾がいっぱい地面に刺さっていたそうです。
赤坂交差点と呉服町交差点が投下目標だったとのことでした。町は丸焼けで、大手門から呉服町が見えたそうです。
無差別爆撃の悲惨さ
福岡大空襲で焼けた地域は、どのくらいの広さがあったのでしょうか。福岡市には、博多港と福岡港が埠頭を挟んであります。焼けた地域は2つの港の海岸線沿い。東は櫛田神社(博多区)、西の大濠公園(中央区)から北側、海岸線までの幅1.8キロメートルがほぼ焼失しています。たった2時間の空襲で死者902人、負傷者1,078人、行方不明244人。
※福岡市では、中心部のほか、春吉、高宮、住吉、堅粕、三宅、花畑、柏原、清水、千代、東住吉、曲淵、内野、東入部、田熊、有田、拾六町、福重、上山門、城原、内浜、今宿などが被災。糸島市香力・蔵持、那珂川市安徳なども被害が出ました。
先ほどお話ししたイランでは、13日以降に224人が死亡したと言います。イランでは防空システムをすり抜けたミサイルが着弾し、人が亡くなっているわけですが、防空態勢が事実上機能していなかった当時の日本で、200機超の大編隊。「じゅうたん爆撃」という言葉があります。全てを覆い尽くすように焼夷弾を落としていく。焼夷弾は、中に粘着質の油が入っています。重いので、当たったら人は即死します。家に当たると、屋根を突き破って部屋の中で油をばらまいて燃え出すので、消しようがありません。当時の日本には防空法があり、空襲時には逃げずに消火するのが国民の義務と定められていましたから、被害者は非常に多くなっていきました。
そこに、米軍による「無差別爆撃」が起きたわけです。日本軍で言うと、中国の戦時首都・重慶を1938年から6年間ずっと空爆を続け、5万人以上の死者を出しています。前年の1937年、スペインのゲルニカでナチスの爆撃が起きたのが、無差別爆撃の初めての例です。民間人の死者が出ることを厭わない。
ゲルニカがあり、その後日本による重慶。そして今度は日本が攻撃の対象となり、福岡だけでなく、日本の主要都市のほとんどがじゅうたん爆撃を受けていきます。民間人も含めた、非常に悲惨な殺傷ですが、東京裁判では重慶爆撃は戦犯追及の対象にはなっていません。連合国軍側も日本で同じことをやっていたからです。
フィールドワークで実感する軍事遺跡
6月14日(土)には、市民団体「ふくおか自由学校」が主催したフィールドワークがありました。元福岡市立高校の社会科教諭、江浜明徳さん(74歳)が案内してくれました。江浜さんは戦争遺跡の調査・研究をライフワークとしています。著書に『九州の戦争遺跡』(海鳥社)があり、防空壕や砲台跡など九州7県の84カ所を網羅している貴重な資料集を作っています。この日も圓應寺から、裏の供養塔に回ってみました。供養塔の横は、レンガ塀を挟んで旧簀子小学校の跡地です。
江浜明徳さん:ここで亡くなった方の数は176人。福岡市内の全犠牲者の2割に達します。簀子小学校が遺体の安置所。コンクリートで造られていたので、焼けなかったのです。たくさんのご遺体がここに運び込まれた。このレンガ塀は、圓應寺さんと小学校の境。小学校の中に安置されたご遺体は、この圓應寺側に運ばれ、火葬されたんだそうです。レンガ塀で、コンクリートで固めている場所があります。実は、「ここは遺体を搬出する通路になった」とご住職は言っておられました。よく見ると分かると思いますが、戦災の際にレンガが焼けた部分も黒く残っています。
江浜さんの案内があるとよく分かると感じました。176人の死者のうち、小学生が24人いたと言われています。再開発で今は変わっていますが、「ここがそういう場所だったのか」と、リアルに感じられました。供養塔の2メートル前で、ご遺体を焼いたのだそうです。近くでは子どもたちが遊んでいて、80年前との落差に驚かされました。
歴史が近づいてくるフィールドワーク
この後、フィールドワークは福岡城に向かいます。今は平和台陸上競技場などがある舞鶴公園になっています。それから旧福岡地裁・高裁があったあたりまでを軍部が使っていました。福岡連隊と、レーダーで中四国・九州地方のレーダー情報から防空業務にあたる西部軍の司令部がありました。簀子地区に被害が集中したのは、すぐ南に日本の陸軍施設が集まっていたのが理由です。
舞鶴公園は今、本当に平和な、家族連れが楽しんでいる場所ですが、例えば兵舎があった横にきれいな石垣があります。「よく、石垣の下の方を見てください」と江浜さんが指差しました。高熱で傷んでしまってひび割れている花こう岩が、いくつもあるんです。福岡大空襲で炎上し、高熱で石垣が焼けて変性してしまったためでした。
一段高い本丸跡には、陸軍の衛戍(えいじゅ)病院があったそうです。けがをして帰ってきた兵隊が治療を受けていました。戦後、陸軍はなくなりますが、国の病院として移転したのが、みずほPayPayドームの横にある国立病院機構九州医療センターだそうです。説明を聞くと、歴史がすごく近づいてくる感じがしました。
追い詰められた日本軍の蛮行
そして江浜さんは、舞鶴公園から旧福岡第一高等女学校の跡地を見下ろす場所に行きました。
江浜明徳さん:ここは、実は悲劇の場所です。福岡大空襲があった次の日、ここに引きずり出された米軍捕虜8名のうち4名を、1人の青年将校が報復のために日本刀で斬首しています。西部軍に囚われていたほかの米軍兵士は、どうなったか。一部は、皆さんよくご存知の九州大学医学部の生体実験に回され、長崎原爆投下後にはまた報復として油山葬祭場の裏山で殺害された。そして、こともあろうか、終戦が天皇の詔があった8月15日に、油山葬祭場の裏山に連れていかれて、全員が口封じのために殺されております。
江浜明徳さん:本当に日本軍が行った行為というのは……。戦争を取り扱うマニュアルにも全く関係ない「報復」という形で米軍を処刑して、そして「広島・長崎の原爆で爆死した」と嘘をついて、ごまかそうとしたわけなんです。後で戦犯で捕まった人が多かったわけですが、死刑を宣告された人もいました。やはり、軍隊というのは責任を取らないもんだ、と。敗戦したって責任を取らない。本当に殺された捕虜は、無念だったと思いますね。
西部軍で殺害された米軍捕虜は約40人と言われます。国際法で捕虜を虐待してはならないとなっている中で、末期の日本軍がいかに常軌を逸していたかという逸話が、ここに残っています。本当に戦争が人を狂わせる例だと思いました。江浜さんも74歳で「長時間のガイドはこれで最後にする」と話していました。参加者には「今日聞いたお話を自分たちで語り継ぎたい」と話す人もいました。

◎神戸金史(かんべ・かねぶみ) 1967年生まれ。学生時代は日本史学を専攻(社会思想史、ファシズム史など)。毎日新聞入社直後に雲仙噴火災害に遭遇。東京社会部勤務を経てRKBに転職。やまゆり園事件やヘイトスピーチを題材にしたドキュメンタリー映画『リリアンの揺りかご』(2024年)は各種サブスクで視聴可能。5月末放送のラジオドキュメンタリー『家族になろう ~「子どもの村福岡」の暮らし~』は、ポッドキャストで公開中。
※放送情報は変更となる場合があります。