福岡県筑紫野市の特産品を使った驚きの新感覚コーヒーをスナッピーが体験
こんにちは、RKBラジオのキャスタードライバー、芝生真優です。今回は、9月8日のRKBラジオ『Toi toi toi』でおじゃました、福岡県筑紫野市永岡にある「Pace cafe&bar(パーチェカフェ&バー)」を紹介します。ここでしか味わえない、ユニークなコーヒーに出逢いました。
甘くない!新感覚の「ジンジャーコーヒー」
Pace cafe&barでは、今年5月から筑紫野市の特産品「山口生姜」を使ったメニューを提供しています。その中でも特に目を引くのが、今回ご紹介する「ジンジャーコーヒー」です。
左・ジンジャーコーヒー、右・ジンジャーカプチーノ
「ジンジャーコーヒー」と聞いて、甘いシロップが入っていると勝手に想像していたんですが、一口飲んでびっくり! 甘さがなく、スッキリとしたブラックコーヒーなんです。そして、その後にスッと広がるのが、ハーブのような爽やかな生姜の香り。普段料理で使う生姜とは一味違う、清涼感のある香りが口いっぱいに広がって、コーヒーを飲んでいるのに、なんだか体がスーッとするような不思議な感覚でした。
職人技!生姜とコーヒー豆の絶妙コラボ
シロップを使わずにどうやって生姜の香りを付けているのか、オーナーの立川さんに聞いてみました。なんと、コーヒー豆を焙煎する段階で、刻んだ生姜を一緒に入れているんだそうです。
水分が多い生姜とコーヒーを一緒に焙煎するのはとても難しく、試作段階ではどちらか一方の香りが強くなってしまい、香りを共存させるのに苦労したそうです。しかし、倍の時間がかかる「二度焙煎」というこだわりの製法を編み出すことで、生姜とコーヒー、どちらの香りも活かした最高のジンジャーコーヒーが完成したんだとか。
この時期は新生姜の季節なので、生姜の状態や水分量も変わります。そのため、焙煎具合をその都度変えているそうです。豆と一緒に焙煎しているからこそ、一杯ずつ丁寧に淹れるドリップコーヒーでも、しっかり香りを楽しめるんですね。
生姜は万能!おいしくて体にも優しい
立川さんが山口生姜に注目したのは、ランチメニューを考える中で地域の方に教えてもらい、その香りの良さとみずみずしさに感動したのがきっかけ。すぐにお店で提供することを決めたそうです。
コーヒーだけでなく、ジンジャーシロップを使ったプリンなど、様々なメニューに山口生姜を取り入れています。「やってみると、生姜は万能で、合わない食材がないほどだった」と話してくれました。冷房で体が冷えがちな夏だからこそ、生姜で体を内側から温めて代謝を上げてほしい、という立川さんの温かい思いも感じました。
今月、福岡市東区の筥崎宮で開かれています福岡三大祭りのひとつ「放生会」の名物・新生姜も、かつてはこの山口生姜だったそうですが、今は生産農家が減っているそうです。だからこそ、このカフェを通して山口生姜の魅力をSNSなどでも発信し、地元を盛り上げていきたいと立川さんは語ってくれました。
皆さんも、美味しいジンジャーコーヒーで体の中から温まって、山口生姜の魅力を感じてみてください。
Pace (パーチェ) cafe&bar
福岡県筑紫野市永岡948−1
電話番号:092-408-3632
※放送情報は変更となる場合があります。
戦争を知らない世代へ平和の尊さを説く─東京大空襲を生き延びた女性が語る空襲体験
戦後81年が経ち、太平洋戦争を体験した方は、本当に少なくなりました。当時、空襲を体験した小学生たちも、いまや90歳前後です。今回は、戦争の悲惨さ、平和の尊さを語り継ぐ「空襲体験者」のお話です。
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
B29による空襲は、昭和19年6月16日、北九州・八幡製鉄所から始まり、翌年の終戦まで、全国200以上の都市で続きました。中でも、昭和20年3月10日の東京大空襲は、およそ300機のB29から32万発ともいわれる焼夷弾が投下され、下町一帯は火の海に……わずか2時間半の空襲で、およそ10万人もの命が奪われ、「世界史上最大の空襲」ともいわれています。この東京大空襲の惨状を今に伝えているのが、東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。
江東区北砂一丁目にある「東京大空襲・戦災資料センター」
もともとは、東京都が「平和祈念館」の建設を進めていました。ところが、財政難から計画は凍結されてしまいます。「それではいけない」と、民間による建設の動きが始まり、4000名を超える人たちから、1億円を超える募金が寄せられました。そして2002年、民立民営の平和博物館、「東京大空襲・戦災資料センター」が開館しました。
焼夷弾のレプリカ。その構造や威力もわかりやすく展示
館内では、空襲の悲惨さを伝える写真や映像、絵画、地図、焼夷弾などが展示され、講演会やシンポジウム、特別展などが行われています。開館当時は、20人ほどの「空襲体験者」が戦争の悲惨さを伝えていました。しかし今、その数は少なくなりました。その中の一人が、二瓶治代さんです。二瓶さんの空襲体験の一部をご紹介します。
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昭和20年3月10日、私は8歳で、家は亀戸駅の近くにありました。その夜、父が「今夜はいつもと違う、起きろ!」と叫んだので、私は飛び起きました。外に出ると、砂町方面が真っ赤に見えました。家族で防空壕に避難しましたが、やがて人々の叫び声が聞こえてきました。父が「ここにいたら、蒸し焼きになるぞ。防空壕から出ろ!」と言いました。私たちは線路の土手に登りました。そこから見た下町一帯は火の海でした。
燃え盛る炎がゴーッと音を立てて家々をのみ込み、人々は燃えながら走っていました。背中に背負った赤ん坊が燃え、手を引かれた子どもが燃え、転んだ子どもは、その場で火の塊になって燃え尽きていきました。やがて、土手にも火が迫ってきたので、私たちは炎が渦巻く火の海の中を、亀戸駅方面へ逃げました。その途中、被っていた防空頭巾が燃え出し、「頭巾をとれ!」と父が叫び、私はあわてて紐を解こうとしました。その時、父とつないでいた手が離れ、強い風に煽られ、私は炎の中に吹き飛ばされてしまったのです。
気がつくと、家族とはぐれて、一人で逃げ回りました。うずくまっている人が、緑色の炎をあげて燃えているのを見ました。馬が燃えながら走っているのを見ました。どこからか、「こんなことで死んでたまるか。みんな生きるんだ!」と叫ぶ男の人の声を聞きました。
私は動けず、その場にうずくまっていると、意識が遠のいていきました。明け方、私は重なり合った人たちの一番下から、父に引きずり出されました。私の上に重なっていた人たちは、真っ黒な炭になって亡くなっていました。この日、私は、生きたまま焼き殺された多くの死者たちに、命を助けていただいたのだと思っています。
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二瓶さんが「東京大空襲・戦災資料センター」を初めて訪れたのは、2002年、開館して間もない夏の終わりでした。その時、センターの担当者から「当時の体験を語ってほしい」と頼まれます。「こんな私の話なんて……」と断ろうとしますが、岩手県から修学旅行でやってくる中学生50人のために話してほしいとお願いされます。
「東京大空襲のことは、我が子にも話さなかった」という二瓶さん。悩んだ末に、当日を迎えます。用意した原稿に目を落としたまま、20分間、顔を上げられず、空襲体験を語り終えました。「そっと顔を上げたんです。すると50人の生徒さんが全員、じっと私を見つめていたんです。身を乗り出して聞いてくれていた生徒さんもいて、ああ、戦争を知らない子どもたちに勇気をもらった……と涙が溢れました」これがきっかけとなり、二瓶さんは、今も空襲体験を語り続けています。
地図の丸印は東京大空襲の直後、仮埋葬が行われた場所
「戦争で一番の犠牲になるのは、いつの時代も、幼い子どもたちです」二瓶さんの言葉が、戦争を知らない私たちに平和の尊さを問いかけています。