財津和夫、「恋愛も毎日しないでまとめてやる」にダメ出しされる

TULIP・財津和夫が、時には自分の癖や過ごし方を点検してみるRKBラジオ『財津和夫 虹の向こう側』。1月18日の放送では、ホテルでいつもしている事、AIについての逆質問、そしてコツコツできずにまとめてやってしまう事、等を話します。

ルーティンは枕の匂い嗅ぎ

ホテルに泊まる時のルーティンについて、のご質問メッセージを頂きました。
財津「いろんなホテルに泊まってるんで、ホテル事情は僕に任せてください、っていうぐらい喋れるんですけど。 ルーティンっていうのはね、まず夏でも寒いじゃないですか」
下田「はい、冷房が入ってて」
財津「布団を宅急便で送ります。それでも寒い時があるんで、靴下3枚ぐらい履きますね、分厚いやつ。パッチ履いて、その上にレッグウォーマーまでして。 で、夜中に空調が変わって、暖かくなったりすると今度は暑すぎて、悪夢を見ます」
下田「悪夢!どんな悪夢でしょう」
財津「暑いのが理由なのに、ずっと人から追いかけられてる感じ。僕の悪夢は大体逃げてる感じ」

財津「あと(別のルーティン)は、コロナが流行った頃、いろんな人が出入りして欲しく無いじゃないですか。 それで、完璧に自分の部屋を作って、もう人が一切入ってこないように、『もう掃除も何もいりません、タオルの交換も何もいりません』と。これで、もうベッドはジメジメして、自分の汗で乾かないまま何日もそれで過ごして。 枕を嗅いだら『くせーな』っていう。 そういう日々をホテルで送っていました。ですから、一番大きなルーティンっていうのは、枕の匂いを嗅ぐ事です」
自ら申告した、変人(?) ルーティンでした。

今後のために二人とも名前を変えます

夫婦でAIに向かって財津さんに関する冗談半分な質問をしたら真剣な答えが返ってきた、というクスっと笑えるお便りを紹介しました。
財津「旦那さん、よくこんなことスマホに向かって言いますね、面白い旦那さんです」
下田「そうですか」
財津「俺、そんな話しかけたこともないし。いやあの、スマホにAIじゃなくても質問するじゃないですか。昔からありましたよね」
下田「ありますね」
財津「そういう事もやったことない。本当に(自分は)昔の人間だなって、今つくづく改めて思った。え、便利なの?」
下田「便利です」
財津「AIと話すと?」
下田「調べるとか、まあ活用されてる方はとても便利だと思いますよ」

財津「この番組を聴いてる人ではどのくらいかな、AI(を活用している人)。(お便りの主は)使ってるんだけど、僕みたいに活用できてない人もいるでしょう」
下田「今は歌詞ですとか、まあ企画書とかPRしたいことを打ち込んで、『これを何々風の音楽にしてください』って言ったら、ミュージックが歌詞と共に出てきます」
財津「すごいな、というか怖いな。自分が考えられるより、すごく広い遠いところに世の中が行ってる感じがして怖い。 手が届くものしか信じられない。でも、頑張って活用するようにして、私の名前も変えます。『財津活用』」
下田「あはは、そうですか。じゃあ私は『下田愛(あい)』にしようかな、AI(エーアイ)」

今日の一曲は、ダニー・ケイ&バーバラ・ベル・ゲデスの『5つの銅貨〜ラグタイムの子守唄』。
リクエストメッセージで質問がてらお知らせ頂いた通り、デビュー前の学生時代にコーラスで歌っていた、との財津本人の証言がありました。詳しくは、番組でお聴きください。

頭が痒くなったら風呂に入る

仕事机の片付けができない、どうしたら良いですか、と自虐的な質問のお便りを頂きました。
財津「『掃除は好きなのに机の上だけは…』。この片付けるって事、僕はいつもむちゃくちゃになるんです」
下田「そうですか?」
財津「無茶苦茶です。ただ片付け始めると、もう徹底的に片付けないと強迫観念が出てきちゃって、『あそこも、ここも』と。何て言うんですかね、重箱の隅をつつくように掃除しまくらないと気が済まなくなるのが、ちょっと自分でも怖い」
下田「なるほど」

財津「でも汚いのも嫌だし。 どうしたらいいんですかね?」
下田「まあどうでしょう。時々もう徹底的に片付けて、『小掃除』をし続けたらいいのかしら」
財津「それが難しい。毎日なんかやる、っていうのが僕、不得意かな。まとめてやる。 恋愛も毎日しないでまとめてやる」
下田「やだ!毎日、毎日育てないとダメですよ、愛は」
財津「いやいや(笑)。でも、なんて言うんですかね、自分のペースってあるじゃないですか、誰にも」
下田「ありますね」

財津「だから、(お便りの主は)『あ、汚いな、散らかったな』とかって思わなくて、もっとポジティブに『どんどん散らかしていいんだよ、私は』と(考えるようにしてください)。それで、『さあ片付けようかな』って片付ける気になってから(片付ければ良いのでは)。 だって、そのままほったらかしにしてゴミ屋敷に住んでるような人じゃないでしょう」
下田「他のお掃除が大好きだということですから、きっと(ゴミ屋敷じゃないでしょう)」
財津「だったらもう自分のペースでいいんじゃない。もう我慢できなくなるじゃないですか」

財津「僕、お風呂も何日も入らないことありますけど。『もう我慢できない』という日が来るもん。夏場は、まあまあ結構汗かくから入るんですけど、今みたいな冬場は『ああ、今日も入んなくていいか』って、そう思い続けて3日4日経つことがあります」
下田「(笑)」
財津「でも、『なんか頭痒いな』とか思い始めると、やっぱりもう入るんですよ、お風呂に。それでいいじゃないですか」
下田「それでいいか」
財津「そうしましょう」
人は易きに流れる。

次回1月25日の放送は、通常通り18時15分(午後6時15分)からの予定です。
Tシャツについて、お話します。

財津和夫 虹の向こう側
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週日曜 18時15分~18時30分
出演者:財津和夫、下田文代
番組ホームページ

出演番組をラジコで聴く

※該当回の聴取期間は終了しました。

戦争を知らない世代へ平和の尊さを説く─東京大空襲を生き延びた女性が語る空襲体験

戦後81年が経ち、太平洋戦争を体験した方は、本当に少なくなりました。当時、空襲を体験した小学生たちも、いまや90歳前後です。今回は、戦争の悲惨さ、平和の尊さを語り継ぐ「空襲体験者」のお話です。

東京大空襲の写真を解説する二瓶治代さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

B29による空襲は、昭和19年6月16日、北九州・八幡製鉄所から始まり、翌年の終戦まで、全国200以上の都市で続きました。中でも、昭和20年3月10日の東京大空襲は、およそ300機のB29から32万発ともいわれる焼夷弾が投下され、下町一帯は火の海に……わずか2時間半の空襲で、およそ10万人もの命が奪われ、「世界史上最大の空襲」ともいわれています。この東京大空襲の惨状を今に伝えているのが、東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。

江東区北砂一丁目にある「東京大空襲・戦災資料センター」

もともとは、東京都が「平和祈念館」の建設を進めていました。ところが、財政難から計画は凍結されてしまいます。「それではいけない」と、民間による建設の動きが始まり、4000名を超える人たちから、1億円を超える募金が寄せられました。そして2002年、民立民営の平和博物館、「東京大空襲・戦災資料センター」が開館しました。

焼夷弾のレプリカ。その構造や威力もわかりやすく展示

館内では、空襲の悲惨さを伝える写真や映像、絵画、地図、焼夷弾などが展示され、講演会やシンポジウム、特別展などが行われています。開館当時は、20人ほどの「空襲体験者」が戦争の悲惨さを伝えていました。しかし今、その数は少なくなりました。その中の一人が、二瓶治代さんです。二瓶さんの空襲体験の一部をご紹介します。

~・~・~・~

昭和20年3月10日、私は8歳で、家は亀戸駅の近くにありました。その夜、父が「今夜はいつもと違う、起きろ!」と叫んだので、私は飛び起きました。外に出ると、砂町方面が真っ赤に見えました。家族で防空壕に避難しましたが、やがて人々の叫び声が聞こえてきました。父が「ここにいたら、蒸し焼きになるぞ。防空壕から出ろ!」と言いました。私たちは線路の土手に登りました。そこから見た下町一帯は火の海でした。

燃え盛る炎がゴーッと音を立てて家々をのみ込み、人々は燃えながら走っていました。背中に背負った赤ん坊が燃え、手を引かれた子どもが燃え、転んだ子どもは、その場で火の塊になって燃え尽きていきました。やがて、土手にも火が迫ってきたので、私たちは炎が渦巻く火の海の中を、亀戸駅方面へ逃げました。その途中、被っていた防空頭巾が燃え出し、「頭巾をとれ!」と父が叫び、私はあわてて紐を解こうとしました。その時、父とつないでいた手が離れ、強い風に煽られ、私は炎の中に吹き飛ばされてしまったのです。

気がつくと、家族とはぐれて、一人で逃げ回りました。うずくまっている人が、緑色の炎をあげて燃えているのを見ました。馬が燃えながら走っているのを見ました。どこからか、「こんなことで死んでたまるか。みんな生きるんだ!」と叫ぶ男の人の声を聞きました。

私は動けず、その場にうずくまっていると、意識が遠のいていきました。明け方、私は重なり合った人たちの一番下から、父に引きずり出されました。私の上に重なっていた人たちは、真っ黒な炭になって亡くなっていました。この日、私は、生きたまま焼き殺された多くの死者たちに、命を助けていただいたのだと思っています。

~・~・~・~

二瓶さんが「東京大空襲・戦災資料センター」を初めて訪れたのは、2002年、開館して間もない夏の終わりでした。その時、センターの担当者から「当時の体験を語ってほしい」と頼まれます。「こんな私の話なんて……」と断ろうとしますが、岩手県から修学旅行でやってくる中学生50人のために話してほしいとお願いされます。

戦時中に使われていた防火用水

「東京大空襲のことは、我が子にも話さなかった」という二瓶さん。悩んだ末に、当日を迎えます。用意した原稿に目を落としたまま、20分間、顔を上げられず、空襲体験を語り終えました。「そっと顔を上げたんです。すると50人の生徒さんが全員、じっと私を見つめていたんです。身を乗り出して聞いてくれていた生徒さんもいて、ああ、戦争を知らない子どもたちに勇気をもらった……と涙が溢れました」これがきっかけとなり、二瓶さんは、今も空襲体験を語り続けています。

地図の丸印は東京大空襲の直後、仮埋葬が行われた場所

「戦争で一番の犠牲になるのは、いつの時代も、幼い子どもたちです」二瓶さんの言葉が、戦争を知らない私たちに平和の尊さを問いかけています。

Facebook

ページトップへ