音楽プロデューサー・松尾潔「めんたいロック」の立役者・松本康を偲ぶ

左から松本康さん・松尾潔さん・深町健二郎さん

「めんたいロック」の立役者として知られる、福岡市の「ジュークレコード」店主の松本康さんが2022年9月、72歳で亡くなった。音楽プロデューサー・松尾潔氏も、少年時代「ジュークレコード」に通っていた一人だった。RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で“音楽塾の先生”との思い出を語った。

ジュークレコードに通った松尾少年

福岡市天神3丁目の「ジュークレコード」というマニアックな品ぞろえで知られた、福岡の音楽シーンをずっと支えてきたレコードショップ。そこの創業者であり名物店主であった松本康さんが、9月の終わりに72歳でお亡くなりになりました。僕も少年時代によく通っていた一人だったので、その思い出などをお話させていただきたいと思います。

 

ちょうど40年前。僕が中学校2年か3年ぐらいだったと思います。当時は野球部で白球を追う少年だったんですが、そのつらい練習から逃げ出すように、音楽にはまっていきました。僕の場合、父親がジャズが好きで、よく家で聞いていたというバックグラウンドもあって、ジャズ、黒人音楽の魅力というのは早くからなんとなくわかっていたんですが、もっと自分にフィットする音楽があるんじゃないかなっていうのを求めて、このジュークレコードに行っていました。

 

当時、松本さんってすごく大人だと思っていたんですけど、その時まだ32歳だったんですね。松本さんを学校の先生のように思いながら、いろいろ質問して、自分の欲しいレコード、欲しいアーティストとその周辺を少しずつ探るような形で、限られた小遣いの中で買ってましたね。松本さんって、レコードショップをやる前は塾の先生やってたんです。だからやっぱり今考えてみるとすごく教え上手だったんだなと。

福岡初の個人輸入レコード店を開いた松本康さん

福岡は今でこそいろんな音楽に自由に手を伸ばせる状況にあると思うんですが、ジュークレコードができた1970年代は、輸入レコードは、ここ以外には福ビルにあった日本楽器(ヤマハ)しか取り扱いがなかったようです。だから松本さんが福岡で初めて個人オーナーとして、輸入レコードショップを開いたわけです。

 

当時は今のジュークレコードがある場所ではなく、昭和通りのフタタの西ある喫茶店「風街」の2階にありました。傾斜の急な階段を上っていくんですが、なんかワクワクしてね、ちょっと猥雑さも含めて。2階に上がると、学校とはちょっと違う、中学生の僕からすると緊張感を持って接するような20歳前後のお兄さんたち、つまりロックンローラーみたいな人たちがたくさんいて、そこに学生服で紛れ込んで、店で売っていた瓶入りのコカ・コーラを飲んでみたりとかね。非日常感を味わいながら。

 

他のお客さんからすると「なんか若い中学生が来たぞ」みたいな感じでお手並み拝見。僕がレコード棚を漁っているのを、後ろから品定めされるような、背中にヒリヒリするものを感じながら。たまに「違う。それ違う」とかって言う人がいたりして。だから誰もが先生になる場所でもあったということかもしれないですね。世の中にはこういう音楽の魅力にとりつかれた人たち、年長者がたくさんいるんだなっていうことをおのずと学んでいきましたね。

シーナ&ロケッツの作詞も手がける

松本康さんはブルースを啓蒙する気持ちが強くて、シーナ&ロケッツの鮎川誠さんと一緒に同人誌を作っていましたし、レコードショップという枠を飛び越えてラジオ番組によく出ていましたし、イベントもやっていました。シーナ&ロケッツのいくつかの曲では松本さんが作詞を担うという、鮎川さんとのコラボレーションも残されていますね。

 

思い浮かぶだけでも「ハートに火をつけて」とか「ブルー・アップ・オン・ザ・ビーチ」とか「KRAZY KOOL KAT」とか、たくさんあるんですが、中でも僕が好きなのは、「ONE NIGHT STAND」。胸がきゅんとしちゃうんだよなこれ。

レコード屋としては失格? その人柄を慕うミュージシャンも多い

「次の汽車を待つ」って詞を書いた松本さんが見ていたのは何線なんだろうな、国鉄筑肥線だったのか、西鉄宮地岳線なのか大牟田線の方なのか。

 

天神にはいろんなところから人が集う場所になっていて、その中の1人にチェッカーズのメンバーだった武内享さんもいました。彼は高校時代、お金がないもんだから、週末は電車賃とコーラ1本分のお金だけを持って天神までやってきて、コーラ1本でずっと1日粘ってた、っていう逸話があります。

 

それどころか、壁に飾ってるレコードを「あれを聴きたい」って松本さんに言って、結局松本さんも人がいいし、そういうのが嬉しいもんだから、全部カセットテープに録音してあげたっていう。レコード屋としては失格ですよね(笑)。アンジーっていうバンドもそうでしたし、ここに通ってたミュージシャンは多いですよね。

田畑竜介 Grooooow Up
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分
出演者:田畑竜介、武田伊央、松尾潔
番組ホームページ

※放送情報は変更となる場合があります。

「音楽を仕事にする」ということを教わる

僕が松本さんに教わった音楽、それ自体ももちろんなんですが、音楽という好きなことを仕事にするということも教わったんだなと今になって思いますね。松本さんといえばジュークレコード。ジュークレコードといえば松本さんという、もう本当に顔で。その顔立ちも役者さんのような華のある、人に「かっこいいよ」って言いたくなるような方だったんで、そういったところも含めて憧れの対象でした。

店名“ジューク”に込めた思い

そもそもジュークってどういう意味かっていうと、今の40代50代以上の方ですとジュークボックスをよく利用したという方もいるんじゃないかと思います。コインを入れて音楽を聞くレコードの自動演奏マシンですね。よく飲食店とかに置いてありました。

 

JUKE(ジューク)っていうのはアメリカの南部あたりのスラングで、歌うとか踊るとか、ちょっといかがわしい遊びも含めての、ジュークボックスがあるようなお店のことをジュークジョイントって言ったりとか、とにかくブルースを愛していた松本さんにとっては特別な言葉だったと思うんです。

 

先ほど話しましたけど、松本さんは西南学院大学の学生だったときに、子供たちに塾の講師として接していて、だから塾っていうのとジュークっていうのとをかけているんです。ロックンロール塾、ブルース塾みたいな意味合いですよ。つまり音楽を売るだけじゃなくて、この音楽を伝えていきたいという、その強い初志っていうのがまずあって、だからそこがビジネスありきでレコードショップやってた他の人たちとは一線を画していたっていうのが、店構え、品揃えからもビンビンに伝わってましたね。

“音楽塾の先生”

僕はジャズから入って、もっと自分の好きなもの、メロディアスなもの、キャッチーなものっていうのを追い求めて、どうやらソウルミュージックとかR&Bが好きらしいというのはなんとなくわかってきたんですね。で、松本さんに「何かソウルミュージックのいいのないですか」っていうと「あんた、どげんとが好いとうと?」って言われて。

 

当時、マイケル・ジャクソンがヒットしている時期でもあったんですけど「マイケル・ジャクソンより、もうちょっと声のしっかりした人の曲が聞きたい」とか、当時の拙い言葉で言うと「そしたらこういうのどうね」みたいなことを言われて。で、マーヴィン・ゲイっていう人を教えてもらいました。

 

松本さんは女性のボーカルグループなんかも好きでしたから「ダイアナ・ロスっておろうが。あの人はシュープリームスってグループやりよったとよ」って。「なんかもっとパンチのある人いませんかね?」って僕が聞いたら「レコード棚のシュープリームスの隣に、マーサ&ザ・ヴァンデラスってのがあるから、それは松尾くん好きかもしれんね」とか言われて。

 

やっぱり教え上手なんですよね。今考えてみると、うまく誘導されてましたよね。僕は学習塾はほとんど通った経験ないんですけど、ここは通いたくなる塾でした。しかも予習していく。復習もばっちりしていくっていうのは本当に、我ながらいい生徒だったと思いますよ。

 

僕が音楽の仕事に就いたことも松本さんは喜んでくれて、今から10年程前に、NHKのEテレで、僕の音楽ルーツをたどるみたいな番組の企画があったんですが、そのときに松本さんのところでロケをして対談もして。ちょっと気取って「音楽プロデューサー松尾潔のルーツを」みたいなあおりのナレーションが入る中訪ねて行ったんですが、松本さんは自然体で「あんた詰め襟着て、あそこの奥のとこ座って、ようレコードばあさりよったろうが」みたいな。

 

いつまでも松本さんの前で僕は「音楽好きな少年の頃」に連れ戻されていたんです。そういうのが心地よくてね、僕にとってもそういう方がいらっしゃるっていうのが。

実る「松本さんの撒いた種」

RKBでもおなじみの深町健二郎さんもやっぱり松本さんを慕う方で、松本さんが亡くなった後、僕は自分のインスタグラムで松本さんと深町さんとのスリーショットを公開しているんですが、そのBGMで使っているのが、The Isley Brothersの曲のカバーなんです。

 

The Isley Brothersはジュークレコードで教わった最たるものの一つですね。普通にラジオ聞いてるだけではなかなか届かないような音楽、その先の音楽っていうのを松本さんよく教えてくれました。僕の、今音楽を作るベースになっていることは間違いないなと痛感する今日この頃です。

 

その松本さんに教わったものの中でも、すごく僕にとってインパクトの強かったのがマーヴィン・ゲイです。マーヴィン・ゲイの「Stubborn Kind Of Fellow」。こういう曲、こういうビートが普通にラジオから流れてくるような世の中になることを、松本さんは願っていました。

 

実際に、ジュークレコードを創業したときよりは、そういう世の中に近づいたんじゃないかと思います。松本さんが撒いた種は、いろんなところで花を咲かせて、実を実らせてるんじゃないかなって思います。音楽はずっと残るし、音楽を教えてくれた人もその音の向こうで生き続けるんだなと痛感しています。

田畑竜介 Grooooow Up
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分
出演者:田畑竜介、武田伊央、松尾潔
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菅井友香、振付家TAKAHIROと当時の思い出を語る!

サントリー生ビールpresents『菅井友香の#今日も推しとがんばりき』のゲストにダンサー・振付家のTAKAHIROが登場し、菅井と出会った時の印象からグループ最後の楽曲「その日まで」についてまで菅井との思い出を語った。

-TAKAHIRO「菅井さんは不器用なんです」-

菅井とTAKAHIROの出会いは2016年。欅坂46のデビュー曲「サイレントマジョリティー」の振り付けの時だったという。TAKAHIROは当時の菅井について、「菅井さんはいっぱい練習する子でした。いっぱい練習しましたね。『不協和音』の立ち方だけでとか、手の引っ張り方だけで、一時間ぐらいずっとやっていた」と当時のことを振り返った。

また、リスナーからの質問で菅井のグループ時代の最後の楽曲「その日まで」の振り付けにどんな意味を込めたのかについて問われたTAKAHIROは、「あの楽曲は全部が逆再生されるように作ってあったんですが、でも、過去のことだけではなく今の菅井さんが表現できることを大切に、前に進んでいけるように。菅井さんはいっぱい背負ってきましたので。だからそのリュックを一回置いて、ただただ走って風を感じられるように。そういう思いを込めて、振り付けをさせていただきました」と語った。

そんな「その日まで」はミュージックビデオの撮影中に釣りをしている人を待つために一時撮影が中断されることもあったという裏話も語ってくれた。

さらに、リスナーから菅井のパフォーマンスに関する裏話を聞かれたTAKAHIROは、「菅井さんは不器用なんです」と断言。しかし、その不器用さ故の長所があると語った。「不器用だけど、努力するという力を持っていた。感覚でみんながやれるところを努力で全部補おうとする。だから本当にその瞬間を任せたときに、ある程度までは要領のいい人が勝つんだけれども、そこから先の努力でもっと深めることができるから、ステージに立った時に誰よりも輝く瞬間がある」

菅井は、その様にやり遂げられたのはTAKAHIROの存在が大きかったと語り、「少年のような大人でずっと誰より近くにいてくださった」と当時TAKAHIROに感じていたことについて振り返った。

その他、「キミガイナイ」の振り付けについての話やTAKAHIROが櫻坂46の振り付けを考えるうえで一番大切にしていることなど、様々な話が語られた。そちらについては是非タイムフリーで

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