アルピー酒井ワールド炸裂!夢は◯◯にまかせるしかない

アルコ&ピース酒井健太さんが、自身もレギュラー番組を持つSBSラジオで、午後のワイド番組『ゴゴボラケ』にゲスト出演。11月7日(木)の放送は、お笑い芸人を目指したきっかけ、伝説のネタ「忍者」の話題、2児の父ならではの子育ての話で盛り上がりました。
(SBSラジオ『ゴゴボラケ』11月7日(木)放送分)

なぜ川崎市の選抜選手に選ばれるほどのサッカー少年がお笑い芸人になったのか、それは「他のやつよりもオレのほうがお笑いが好きだな」と思えるほど単純にお笑いが好きだったからという。そしてレギュラーラジオ番組5本のトーク力が炸裂、MC側に質問を投げかけ立場逆転、気付けばスニーカーやG−SHOCKの話題へと変わり、“酒井ワールド”に飲み込まれる展開に。


そして話題は、自身も認める伝説的ネタ「忍者」の裏話へ。 

 

ゴゴボラケ山田:売れたな感はいつですか?

酒井:あれ、(漫才ネタ)「忍者」じゃない?「忍者」。

山田:やっぱ「忍者」か・・・

酒井:バイト辞める辞めないがさ、わかりやすいじゃん一番。そこだもん。

山田:「忍者」(ネタブレイク後)で辞めたんですか?

酒井:「忍者」で辞めた。

山田:うーわ!あの今ラジオ聴いてる皆さん、「忍者」のネタ、伝説的なんですよ

酒井:伝説!マジで

山田:お笑いじゃないんですよ

酒井:もはやお笑いじゃない、ドキュメントみたいな

山田:ドキュメントなんですよ!いきなり出てきて酒井さんがネタのフリとして
「いや〜僕ね忍者になって巻物取りに行きたいと思ってるんです」って言ったら、
(相方の)平子さんが次の一声目で「じゃあお笑いやめろ」
って言って始まっていく、何それ!って言うネタなんですけど。

酒井:まぁメタっぽい感じだよね、今までの

山田:あれはやばかったっす

酒井:衝撃的ですよね・・・

山田:自分で言うけど 笑

酒井:それ何年でしたっけ?2012か?

山田:2012とかですよね、THE MANZAIですね

酒井:じゃあ30(歳)だわ、バイト辞めたの。早い方っすよ、これ。お笑いだと。早い方。

山田:そうですよね。そこからあんまりアルピーさんて、
ネタで見て来ないですもん。もう普通にテレビ出ちゃってるから。

酒井:あ〜・・・そのあとあるんですけどね、いろいろ。

山田:あるんですよ、キングオブコントで怒られたりとかいろいろあるんですけど

酒井:そうそうそう、あれが一番大きい分岐点にはなってるかも。(本編へ続く) 



コーナー終盤の「今後の夢は?」という問いに対し、「(自身のSBSラジオ番組)ヌンヌンヌーンは続けたい、コンビとしては安定してたい、あとはNISAにまかせるしかない​」と飄々と答える場面も。そして、もともと番組の相方でもあった元SBSアナウンサー矢端名結さんとのほっこり子育てエピソードもお聴き逃しなく!


続きはこちら!⇨SBSラジオ『ゴゴボラケ』Meets Week!

SBSラジオ『ゴゴボラケ』
放送局:SBSラジオ
放送日時:毎週月曜~木曜 13時00分~16時00分

※放送情報は変更となる場合があります。

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亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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