宮西尚生「まさかマウンドで涙するとは思わなかった」栗山監督からの"手渡し"に秘められた思い

栗山さんのためにも"15年連続50試合"目指す!! ©STVラジオ

北海道日本ハムファイターズの宮西尚生投手が、真剣勝負の試合の舞台裏やチームメイトのこと、リスナーからのお便りにも答える番組『宮西尚生のなんとかなるさ』。今や"ビッグ・ボス"の話題で持ちきりのファーターズですが、退任した栗山監督のことも忘れないで!ということで、栗山監督を尊敬していた宮西投手が、10月26日の札幌ドームでのホーム最終戦で話題となった場面について語りました。

草野あずみ:(宮西投手へ交代の際)栗山監督が自らマウンドに歩み寄り、宮西さんに手渡しでボールを渡している姿を見て、表情や、お互いにウルウルしているのが伝わってきて、ジーンとしていました。

宮西:けっこう、そういう言葉は頂きましたけど。まさかね、自分がマウンド上で「やばい!涙出る」ってなるとは思わなかったんですよね。さすがにね、勝負の場ですし、自分も(記録更新がかかる)50試合目の登板で「しっかり抑えたい」というプレッシャーもあるし…。だけど涙がこぼれそうでしたね。(中略)

宮西:「最後に監督がボールを渡したい」と伝え聞いてから、いろいろ考えさせられましたよね、自分の今までの(栗山)監督とのやりとりと言うか。本当に。自分の成績を振り返ったときに「ほとんど(栗山)監督やん」と思って。それは凄く、いろいろ思うところがありましたね。

草野:粋な演出もありましたよね。

宮西:登場曲ね?(編注:投手交代の際、登場曲として特別に、さだまさしの「道化師のソネット」を選曲)。あれも(ボールを)直接、手渡ししたいと伝え聞いてから、何か監督の思い出となるようなことをしてあげたいなと思って、監督に付いてるマネージャーに「監督って、どんな音楽が好きなの?」って聞いたら、「さだまさしさんの『檸檬』(れもん)が好き」って言われたん。で『檸檬』を聞いたら、(登場曲には)合わないだろうなと思って、そこから、さだまさしさんの曲をひたすら全部、聴いて、その中で『道化師のソネット』を「わあ、これいいかも」と思って。

宮西:あれもアレンジしてるんですよ、ちょっと。急きょ、音響さんに頼んで「何秒から始めて何秒まで、次の何秒からもう一回、つなげて下さい」って言う感じなんで。

草野:そうだったんですね~。

宮西:そんな感じなんで、あの曲(『道化師のソネット』)を知ってる人は「んっ?」って感じになるかも知れないんですけど、僕の好きなフレーズというか「監督っぽいな」ってところを全部、選んだんです。

あのシーンの裏には、宮西投手の万感の思いも込められていたんですね。本人の語りで聴いてからもう一度、あの交代シーンを見ると、ファンならずともちょっと込み上げるモノがあるかも知れません。

STVラジオ『宮西尚生のなんとかなるさ』(毎週木曜 17:30~17:40) ★『吉川のりおスーパーLIVE』内
 

宮西尚生のなんとかなるさ
放送局:STVラジオ
放送日時:毎週木曜 17時30分~17時40分
出演者:宮西尚生(北海道日本ハムファイターズ投手)、草野あずみ
番組ホームページ

Twitterハッシュタグ:#宮西尚生のなんとかなるさ
メール:live@stv.jp

プロ野球・北海道日本ハムファイターズの宮西尚生投手がレギュラー出演。シーズン中も現役の選手が毎週、トークを繰り広げる貴重な番組です。日本プロ野球界の中継ぎ投手のトップランナーでもある宮西投手の、現役ならではの苦労や楽しさなど、試合を見るだけでは判らない選手としての生の声が聴かれます。ファンからのメールにも優しく楽しく答えてくれる宮西投手の魅力が満載です。

※該当回の聴取期間は終了しました。

亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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