宇多丸、『花束みたいな恋をした』を語る!【映画評書き起こし】

ライムスター宇多丸がお送りする、カルチャーキュレーション番組、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」。月~金曜18時より3時間の生放送。

『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。
今週評論した映画は、『花束みたいな恋をした』(2021年1月29日公開)です。

 

宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、1月29日から公開されているこの作品、『花束みたいな恋をした』。

(曲が流れる)

はい。これ私、先ほど(番組)オープニングで言った、大友良英さんの劇伴。これを聞くだけでちょっと、涙腺が激しく刺激されて危険! という音楽でございます。『東京ラブストーリー』『最高の離婚』など、数々のヒットドラマを手がけてきた坂元裕二のオリジナル脚本を、菅田将暉と有村架純の主演で映画化。終電を逃したことから偶然に出会った、大学生の山音麦と八谷絹。2人の5年間の恋を描く。監督は、坂元裕二脚本のドラマ『カルテット』の演出も手がけた土井裕泰さん、ということでございます。

ということで、この『花束みたいな恋をした』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「とても多い」。これ、評判がね、もう去年の試写の段階からすごく伝わってきたので。評判が広がっているんだと思います。実際、ヒットしている。賛否の比率は「褒め」の意見が8割。残りが「良くなかった」という声でございました。

主な褒めの意見としては、「ラストで号泣。今年の暫定ベスト」「これはアトロクリスナーに刺さる。とても他人事とは思えない」「坂元裕二脚本らしい特徴的なセリフ回しも堪能できた」「主演2人の演技はもちろん美術、撮影全てがよい」などございました。また多くの人が自分の話をするのも今作の感想の特徴。やっぱり自分の、自分史を投影するタイプの作品ですよね。猛然と自分のことも思い出すという。ちょっと記憶の扉を開かれたりもしますよね。

また、「出てくるサブカル的な固有名詞に愛情を感じず冷めてしまった」とか「恋愛経験に乏しいのでピンと来ない」といった声もありました。まあ、それもね。

■「ポップカルチャーによって恋愛関係を築き、労働によって恋愛関係が崩れる」(byリスナー)
といったあたりで、代表点なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「dxdxd」さん。「『花束みたいな恋をした』、奇跡のような5年間の恋愛に悶絶しました。早くも今年度ベストです。『(500)日のサマー』『ビフォア〜』シリーズ系統かと思いますが、日本映画でこのテイストはあまりない気がします。アトロク的に言えば『何かが始まる音がする、Y・O・K・A・N~予感~』で『何か』が始まった人たちの話ですね」。「何かが始まる予感がした」って言ってましたからね!

「……本作の一番のポイントはポップカルチャーによって恋愛関係を築き、労働によって恋愛関係が崩れる点だと思います。これは菅田さんが本作のPR番組で言っていたことですが、『カルチャーという部分で、現代的なあるあるで言うと、メディアも発達して『俺らはこれが好き』という小さいコミュニティーが増えて、その中の盛り上がりを描くのが今っぽいっすね』とのことでした。

本当にその通りで、今、ポップカルチャーが細分化、供給過多の中、たくさんの最小単位のコミュニティーができていて、たまたま出会った人が全く同じコミュニティーって奇跡に近いです。だからこそ、後半の展開が残酷なのです。合わせ鏡のような関係性だったのにも関わらず、次第にずれていき、奇跡のような関係が崩れていく。この2人の関係を引き裂くものこそが『労働』だったと思います。麦のイラストのギャラがもっと上がれば好きなことを仕事にできたし、心の余裕がなくなったのも『就業時間は5時まで』と求人を出して全然守らないブラック気味の会社のせいです。

個人的なことにはなりますが、自分も当時付き合っていた彼女と別れたのは同じような原因です。自分は長時間労働しているのに、彼女の方は実家暮らしで、自分は好きなことして生きるというスタンスで過ごしてるのがどうしても受けることができなかったのです。今では間違いだったと猛省しております。2人の関係性に亀裂を入れるのは、恋敵、病気、身分の違いでもなく、労働という社会のシステムそのもの、という点がこの映画を身近な物語だと感じる一番のポイントだと思います。このあたりは今まで、テレビドラマで長時間労働、児童虐待、パワハラなどの社会問題を描いてきた脚本家・坂元裕二のエッセンスがにじみ出ていたかなと思います。

そして、終盤でのファミレスでの一連のシーンに感情のダムが決壊しました。あの結論を出せなければ、『ブルーバレンタイン』『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』みたいなことになっていたでしょうね」。そうか。だから無理して(関係を)持続してもね……っていうことはあるのかな。「コロナ禍の今、明大前で終電を逃して出会うなんてことはなかなかできませんが、それでも『花束みたいな恋をした』みたいな恋をしたくなりました」というご意見でございます。

ええとね、本当に皆さん、いろんな形のメールをいただいていて。全部、ご紹介したいんだけどね。良くなかったという方もご紹介しましょう。「かずま」さん。

「今回、テレビドラマの名手、坂元裕二さんのオリジナル脚本ということで、彼のドラマ独特のセリフ回しがどう映画になるのか、非常に大きな期待を胸に劇場に向かいました」という。で、いろいろと書いていただいて。

「……本作における2人の恋は本当に花束のような恋だったのでしょうか? 趣味が共通言語となったのをきっかけに距離を縮めていくものの、結局本質的な部分では繋がりを持てていなかった2人の関係性は映画が終わってみると非常に浅いものに見えてしまいます。だからこそ、2人の関係性は現代的で逆にリアリティーのある残酷性に満ちているのかもしれませんが、こんなに残酷ならシニカルに突き放してほしかったです」という。で、またいろいろ書いていただいて。

「一見、リアリティーのあるような雰囲気があるものの、2人の生活描写は少なく、お金の話もあんまりしないので、現実感がない。リアリティラインの線引きが中途半端なところで止まっている気がします。2人の掛け合いが素晴らしい分、細かい部分がノイズになってしまい、坂元さんの脚本特有の独特のセリフ回しや説明的な部分が気になってしまいました」。お金の話はでも、麦くんのイラストのギャラのあれとか結構、「うわっ!」っていうリアルさだったように感じますけどね。そして彼がやっぱり、ある方向に舵を切ってしまうのもそこなので。意外とお金の話、労働条件問題は(背景に)敷いてある気がしますけどね。まあ、乗れなかった方がいても当然だと思いますが。

■映画史の中に「恋愛についての映画≒恋愛映画」。中でも本作は純度の高い「純・恋愛映画」
ということで皆さん、メールありがとうございます。『花束みたいな恋をした』、私もテアトル東京で……毎週ね、2回、3回と見たりするのは当たり前なんですけど、結構このコーナーでは、『スター・ウォーズ』初日とかの例外を除いて、初めて「連続で」2回見てしまいました。ということです。非常にお客さんも入ってましたね。さすが、『鬼滅』を抑えて興行収入1位だけのことはあるかなと思います。

ということでですね、これまでにも、「恋愛映画」というより、「恋愛についての映画」……つまり、「暴力映画」ではなく「暴力についての映画」があるように、恋愛についての映画。要は、僕がお気に入りジャンルとしてよく言う、倦怠夫婦物、倦怠カップル物っていうのはまさにその一部。恋愛について考察する映画というか、恋愛について思考させられる映画というか。その系譜での傑作、名作がいっぱいある。

要は、恋愛の成就がゴールになってるわけじゃない話……いわゆるラブコメ、ロマンティックコメディとかだと、恋愛の成就がゴールだったりしますけど、そうじゃなくて、むしろ「その先」の困難や、絶望を描く。ひいては、我々自身のその人生の、生の限界というか、限定性というか……でも、それが限定的だからこそ、非常に尊く、愛おしい、っていうのを浮き彫りにして描くような、そういう系譜での傑作、名作が、映画史にはいろいろあるわけなんですが。

その中でも特に、恋愛の一番いい時期と、もうダメになっちゃった時期を、ひとつの作品の中で対比させるという、まさに鬼畜の所業とも言うべきストーリーテリング技術により(笑)、我々観客の心のかさぶたをメリメリと剥がしにかかってくるタイプの傑作群というのが、ちょいちょいありまして。たとえば、僕の映画評で扱った中で言っても、やはり2010年の『ブルーバレンタイン』。あるいは2009年の『(500)日のサマー』であるとかですね。

あるいは、そうした構成……要するに『ブルーバレンタイン』とか『(500)日のサマー』みたいに、いい時と悪い時を交互に、カットバック的な感じで見せるみたいな、そうした構成のひょっとしたら元祖と言えるかもしれない、1967年のスタンリー・ドーネン監督、オードリー・ヘップバーン主演の『いつも2人で』。ちなみにこれ、パンフレットの大友良英さんのインタビューで、「オードリー・ヘップバーンを輝かせるためにヘンリー・マンシーニが曲を作るような方法じゃないな」なんてことを発言していて。これはもう明らかに、この『いつも2人で』のことを書いている。

つまり、『いつも2人で』みたいなアプローチは取れないなと思った、というぐらい、やっぱり話の構造としては近いなと思われたということだと思うんですけどね。あるいはですね、フランス映画で『ふたりの5つの分かれ路』という、これも胸をえぐるような作品であるとか。さっき言ったような、その恋愛関係の否応ない変化を、クライマックスで一気に凝縮して見せるという、本当に凶悪極まりない作りの『テイク・ディス・ワルツ』であるとかですね。いろんなそういう系統の作品、心に突き刺さって一生取れないような作品が、いっぱいあるんですけど。

今回のその『花束みたいな恋をした』は、明らかにそうした、今言ったような作品群の系譜上にありながら、まあ恋愛というものを見つめる、考察する目線の、言ってみれば純度の高さって言うか、混じりっけのなさにおいて、ちょっと突出している、意外とありそうでなかった、いわば「純・恋愛映画」……「純愛映画」ではなくて、純・恋愛映画というか、そうなっているあたりがすごいと思いましたね。

■主人公ふたりの関係性を揺さぶる外部要因は、あえて言えば「時間」だけ
つまり、ある男女が出会い、恋に落ちるんだけども、それがやがて否応なく変質していく、という話の中で、この『花束みたいな恋をした』が……これ、メールに書かれていた方も多かったし、あるいは坂元さんご自身がいろんな記事でも仰ってますけど、よくあるような、その「ドラマを起こすための外部要因」というものを持ち込まない。たとえば、第3のキャラクターを交えた三角関係になるとか、病気になっちゃったとか、事故にあっちゃったとか、事件になっちゃったとか。

とにかく、そういう何か大きめの、あるいはちょっと異常性のある荒波を起こして、2人の関係性を揺さぶる、というようなことを、この『花束』は基本的に一切せず……せいぜい「オダギリジョーが“オダギリジョー力”のみによって、不穏なある種の磁力を感じさせる」といったことだけ(笑)。といったぐらいで、あくまで、有村架純さん演じる絹ちゃんという子と、菅田将暉くん演じる麦くんという、この2人の関係性だけに焦点を絞って。あえて言えば、絹ちゃんと麦くんと、もうひとつ、社会とか時間とかっていう、もうひとつの……僕はやっぱりその「時間」が、もう1人の主役だと思うんですよね。時間が過ぎることによって社会と直面せざるを得なくなる、ということで。「絹ちゃんと、麦くんと、時間」がこの映画の3人の主人公だと思うんだけど。

とにかくこの、誰もが自分が同世代だった頃、まあ20代始めから後半にかけて、要は学生から社会に出て行くタイミング、一大変化の季節を投影し得る……特にその、パートナーとの同居、からの解消、みたいなのの経験があれば、なおさら強く共鳴してしまうような、この最高にかわいらしい、愛おしいカップルがですね、その時間の経過に伴う諸々の変化に、どう否応なく変質していくか、という。これをですね、有村架純、菅田将暉両氏の、見事に実在感あふれる、繊細で自然な……「演技」というか、もう「あり方」と表現したいような、その画面の中でのたたずまい。

そしてあるいは、彼らを取り巻く、2015年から2020年の日本、東京を実感させる、さまざまなディテールの丁寧な描き込みによって、あたかも本当に5年間を、彼らと共に、もしくは彼らとして生きたかのような、しっかりとした重みを伴う記憶のような感慨を、見る者に植えつけてしまう……だから今、俺の頭の中にはやつらが住まってしまっている、という(笑)。そんな作品になってるわけですね。

■劇中のサブカルチャー要素は具体的な「個人」にリサーチしたもの
今回、この物語ですね、主演の2人に当て書きで、オリジナルで作り上げた、先ほどから何度か名前が出ています坂元裕二さん。数々のね、本当にそれこそ20代前半から、大ヒットドラマシリーズを数々、手がけてこられたわけですけれども。特に近年はね、先ほどのメールにもあったように、社会問題を見据えた作品でさらに評価を上げてきた、という感じですけども。たとえば、僕が見ている中で……僕はちょっとそこまで、全作品を追いかけているような熱心なファンじゃなくて申し訳ないですけど、僕が見ている中でも、今回も監督として組みました、その土井裕泰さんと組んだ『カルテット』、2017年。これ、言うまでもなく私のラップパートナーである、Mummy-Dさん出演でも知られる、これまた傑作ドラマですよね。

まあある意味、だからもう私は事実上『カルテット』関係者っていう……「恥ずかしくないのか、お前?」っていうね(笑)。はいはい、まあそれはいいんだ。『カルテット』の中の、松たか子さんとクドカンさんの夫婦のエピソードがあるんですけど、あれとか。あるいはこれ、ずっとね、前から人にすすめられていて、今回遅まきながら一気見をしたんですけど、『最高の離婚』とかね。あと、考えてみたらその出世作である『東京ラブストーリー』だってそうなんですけど、さっき言ったようなその倦怠カップル物、実は非常に坂元さん、得意とされてるというか、繰り返し描いてきた、とも言えると思うんですよね。

まあ今回の『花束』にも、『カルテット』の松たか子・クドカン夫婦の、お互い共有したいところが共有できない悲しみであるとか。あるいはその『最高の離婚』における、特にやっぱり恋愛初期と今の対比であるとか。そしてその『東京ラブストーリー』の、特にやっぱりあの、ちょっと意外なまでにドライな着地っていうかな、あの感じ。などなど、ですね、これまでも坂元裕二作品で描かれてきたような……他の作品もきっと(本作に通じる)エッセンスが(含まれているはず、たとえば)、「ファミレスでの会話」とかね。あの『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』クライマックスのファミレスの会話、とかも含めて、ある種そのエッセンスが、研ぎすまされ、集約されている一作、という風にも言えるんじゃないでしょうか。ちょっと集大成的な感じもあるかな、という風に思いました。

まあ、お話の作り自体は、実は先週の『KCIA南山の部長たち』と同じですよ(笑)。ラスト近くから始まるんです。で、お話全体の行き着く先っていうのを、先に示す作りなんですね。だからね、これ、ちなみに坂元さんが、自分は映画にはあまり向かない作り手だと思っていた、要するにテレビドラマシリーズは結末、行きつく先をあまり考えずに作ることができて、それが好きだから、っていう風に仰ってるんだけども、この作品のように行き着く先が先に設定されて、そこに……っていうことであれば、これは(映画としても)上手く行った例、という風に言えるかもしれませんけども。

特にですね、この話のキモとなるのはやはり、これは僕の表現で言うと、「“自分の似姿”としての理想のパートナー」という美しくも儚い幻想、というあたりがやっぱり、一番のキモかと思います。劇中大量に登場する、その2015年から2020年にかけての彼らの興味、趣味を反映したサブカルチャー要素、というのがあるわけです。ちなみにこれ、先ほど(番組オープニングでも)言ったように、坂元さん、「具体的な個人」に対するリサーチに基づくもの、ということで。なるほど、全く嘘が感じられないというか、「たしかにこういう人、いるよね」っていう感じがする、実在感がある並びになってるんですけど。

■映画前半に現出させる「奇跡のような普通の時間」
で、当然その、そうした個々の固有名詞に対して、やいのやいの言って楽しむこともできる、そういう余地がふんだんにある作品なのは、間違いないんですが……ただ、一番肝心なのは、そうしたそのサブカルチャーへの傾倒というのはですね、絹さん、あるいは麦くん両者にとってですね、それ以外の世界、他者たちと自分を隔てるというか、自分を守ると言ってもいいかもしれないけど、自分というものの固有性を構成する、言ってしまえばアイデンティティの一部でもある、ということですよね。

だからこそ、その麦くんと絹ちゃんというこの2人……有村さんと菅田くんが演じていながら、ちゃんと序盤では「周りの人に埋もれている人」に見える、というあたり、やっぱり役者さんってすごいですよね。だからこそ、序盤、彼らが互いに共通するものを1個1個見つけては、距離を縮めていく。要するに、自分の似姿をついに見つけた、ソウルメイトについに出会った!的な喜びという。で、それをだから、その自分にとって大切な何かと置き換えつつ、観客の我々は見ることができるわけです。

だから、あのあふれかえる固有名詞たちは、全部分からなくてもいい。むしろ分からない方が、「この2人には分かっている」っていう、その2人の固有性が際立つから。むしろその方がいいくらいなんですね。というものだと思ってください。

で、彼らのその、恋愛最初期のくだり。非常によくできているのは、たとえば着ているものもですね、わかりやすいところでは2人ともジャックパーセルを履いてるとか、あとはその霜降りのパーカー、同じようなのを着て。あるいは、JAXAのエコバックを両方持ってきている、とかあるんだけども。アイテム的にも意図せずしてペアルック化しちゃっている、っていうのもあるし。

あとは、場面場面で、たとえば青と白であるとか、黄色と緑であるとか、アイテムとしては違うんだけど、トータルで見ると、色としてちゃんと対になっている、みたいなスタイリングになってたりするわけですね。このへんも本当に上手いですし。あと、その坂元裕二さんの元のシナリオと実際の映画を比べると、有村架純さんと菅田将暉さんが……あれはアドリブなのかね? だから、ごくごく自然な、本当の会話に思えるような会話感を、実は細かく足していて。それがその、それぞれのシーンに厚みというか、温かみを増しているところ。それが随所にあって、これがさらに感心、感動してしまうあたり。

たとえば、麦くんのアパートに初めてその絹ちゃんを連れてくるところ。大雨に降られてびしょびしょの服を脱ぎながら、「いやー、しかしすごかったね(雨がすごかったね)」「うん。でもちょっと楽しかった」「アハハハハハハハハ!」っていう、あれ、シナリオにないやり取りですし。あるいは、さっきの(番組オープニングで話した)居酒屋の(シーン)、「すいませ〜ん」っていうあの謝り方。あれもシナリオにはないですし。

あるいはその後、家に来てから、麦くんが作った焼きおにぎりを絹ちゃんが2つ食べる、というところで、最初、有村さんがおにぎりを頬張りながら、「もうひほふ、いいへふは?(もうひとつ、いいですか?)」って言って。それに対して菅田さんが、笑いながら「えっ、なんて言ったの?」「これ、もらっていいですか?」「ああ、どうぞどうぞ」っていう。この、ちょっとしたやり取り。本当、こういうところにこそ……そういう素敵なやり取りを、シナリオからさらに膨らませて足している、というあたり。これが本当に、この作品の魅力をさらに増している。

たしかに、こうした何気ない瞬間こそが、我々の実人生においてもですよ、本当は一番の宝ですよね。こういう何気ないやり取り。で、それを、丁寧に丁寧に、ごくごく自然にリアルに、しかしこれ以上ないほどの多幸感をもって、積み上げていく。「奇跡のような、普通の時間」というのを現出させていく。それがまずはこの『花束』、前半部の素晴らしさですよね。

■リアルでつらい口論シーン。「『またか』とは思うよ! 『またか』だからね!」
で、そうやって、「これ以上、幸せなカップルっているの?」と、我々自身も心底思い始めるところまで行ってるからこそ……だって、駅から30分の物件、不動産屋の人も「えっ、でも駅から30分ですよ?」っていう、なんかあのへんはちょっと森田芳光映画的な裏ツッコミっていう感じがしますけども、その道のりさえも、幸せ!って。もうそんなの、最強じゃないですか? なんだけど、その幸せな瞬間の、絶頂の中にも、既に終わりへ向かう予感は含まれているのだ、ということを、少なくとも絹ちゃん側は何となく意識してもいる、という。この海に行く日のくだり。映像タッチがちょっと変わりますね。あるいは音の緩急。フッと音がなくなったり、そういう緩急も効いていて。非常に胸を締め付けてくる。

その恋愛初期段階においては、さっき言ったように、「自分の似姿としての理想のパートナー、ついに見つけた!」という喜び、それはまるで自分の人生を全肯定されたような気持ちですから、それは嬉しい。それは天にも登るような気持ちですけど、問題はやはり、どんな人であれ、実は自分の似姿などではなく、「他者」であることには変わりがない、っていうことですね。だから僕はあの、「イヤホンで、同じものを聴いているつもりかもしれないけど、実は違うものを聴いているんだ、君らは」っていうのはつまり、そのメタファーだと思うんですけど。

まあ、カップル2人の関係にですね、先ほどから言っている「時間経過」という第3のファクターがどうしたって関わってくることで、その似姿というのものの幻想が、みるみる朽ちて、他者性がむしろ浮き上がってくる。要は、端的に言えば、人は誰しも変わっていく。そして、取り巻く環境も変わっていく、という。特にやはり、対社会、現実の中で生きていくということと理想を、どう折り合いつけていくか。その足並みが、パートナー同士、必ずしも合わないタイミング。これ、当然やってくるわけですね。

で、その背景にはやっぱり、日本社会のあり方……先ほど言ったように、ちょっとブラック企業的な、しかもそこに一旦、要するに昔ながらのマッチョな「俺が養ってやる」イズムみたいなところに一旦乗っかっちゃうと、それに染まっていってしまうその麦くんの悲しさもあるし。逆に絹ちゃんは絹ちゃんで、そういう意味でそういうキャリアを積むような職を、あんまり重ねられないというか……自分で資格取ったりとか、ちょっとベンチャー的な企業に行ったりとかするけど、女性側のその就職の難しさみたいなものも、ちょっと浮かんでくる気がするんですよね。

で、ここでまず菅田将暉さんが本当に見事なのは、麦くんって、学生時代は非常におっとりしたしゃべり方をする子だったんですよね。でも、ネクタイを締めて以降、しゃべりのスピード自体が、変わるんですよね。それだけでもう、別人みたいなんですよ。同じ人なのに。これ、見事ですね。そして有村架純さん演じるこの絹さん。逆に絹さんは、何でも一旦、飲み込む人なんです。その麦くんと口論してても、麦くんの言うことをかならず一旦は、「そうだね」ってかならず受けてあげる。ちょっと大人だし、優しい、「いい人」なんですよ。

でも、だからこそ、その中に溜め込んでいくものっていうのを、これは有村さんが、あのかわいらしい顔の中に、見事に……なんというか、基本優等生的な「いい人」だからこそ、内に抱え込んだ思いっていうのの(表出先としての)、その表情が、やっぱりちょっとゆがんでいく、ちょっとくすんでいく表現。本当に有村架純さんならではのバランスじゃないでしょうか。ということで、この倦怠カップル物というジャンルはですね、見どころはやっぱり、「口論シーン」なわけで。本作、これは現代日本のカップルの口論シーンとして、本当に最高にリアルで、つらい!

あれとかね、「『またか』とは思うよ! 『またか』だからね!」とかね。「『じゃあ』が最近多いんだよ!」とかっていう。「俺もこういうこと、言われたことあるわ……」みたいな感じで。で、これを見事に、やっぱり同年代の俳優であれば激しく嫉妬するに違いない、もう最高の役柄、最高の演技で、この2人が見せてくれる。それ以降、この2人のズレが、それを補正しようとする努力を一応すればするほど、大きくなっていく、という後半。

たとえばそのらアキ・カウリスマキの映画を見ても……だし。その夜のベッドでの、つらすぎる会話。「また映画とか……やってほしいことあったら言って」って、なんだそれ? 今日お前、「サービス」のつもりだったのかよ! みたいな。こういう1個1個の、一言一言の棘、ささくれが、重なっていくプロセス。まさに名匠・坂元裕二の技、といったあたりじゃないでしょうかね。

■近年の日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな?
クライマックス、これは坂元裕二さん十八番の、「ファミレスでの会話」です。これ私、『佐々木、イン、マイマイン』評で、「こういう普通のカップルの、“ちゃんとした別れ”を描く作品って、日本で意外とないよね」と言いましたけど。まさにここ、本作はまさにその、究極形と言ってもいいかもしれない。このクライマックス。

と、いうのはですね、ここは、恋愛初期のマジックが解けた後、さっき言った似姿のファンタジーがなくなった後、「それでも共に生きていく2人」のあり方、その可能性さえ、しっかり提示してみせる。それはそれで間違っていないのかも、悪くないのかも、という、いわば苦めのハッピーエンドの可能性も、しっかりと説得力を持って提示しつつ。絹ちゃんだって、そっちに行こうかなと思いかけつつ……やはり、あまりにもあの頃の私たちは輝いていすぎた、眩しすぎた、ってことなのかなって。

でもね、その輝きを背に生きていく、その先の人生……あの思い出があるから、これからの人生も素敵なんじゃないか、というこの着地。後味は、この種の作品の系譜としては、異例なほど爽やかです。特に、エンディングの切れ味。伏線回収としても見事そのものだし、本当に思わず拍手したくなる……近年の日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな? というくらいの、最高の終わり方ですね。とにかく、先ほどから言ってるように、今、僕の頭の中、心にはですね、この映画が……そしてその中で生きていた彼らが、住み着いてしまった。

そして、きっと見た人の多くがそう感じるタイプの映画ということじゃないでしょうか。彼らに幸あれ! ……そして、我々自身の人生にもですね、たとえばその、大好きな人との時間や記憶、これから更に大切に生きていこう、という風に思える、大事に、花束のように抱えながら生きていこうと思える、そんな映画でございました。

一応、カップルで見るよりは、それぞれ別個で見て、「(お互いを)大事にしよう」という気持ちを持って帰るのがよろしいんじゃないでしょうか。若干、カップルで見終わった人は、劇場を出て気まずそうでした(笑)。ということで、これはなんというか、結構な射程を持った、名作じゃないかなと思った……『花束みたいな恋をした』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください。

(中略)

宇多丸:あの、「トイレットペーパーは地元で買え」問題に関して、(絹ちゃんの実家がある)飛田給は、駅前にそういう店がなくて不便なんですって(笑)。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ジャスト6.5 闘いの証』です)


以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

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Hana Hope「“暗闇って魅力的だな”と思って…」メジャーファーストアルバム『Between The Stars』のタイトルに込めた思いとは?

ジョージ・ウィリアムズ、安田レイがパーソナリティをつとめるTOKYO FMの生放送ラジオ番組「JA全農 COUNTDOWN JAPAN」(毎週土曜 13:00~13:55)。3月22日(土)の放送は、シンガーソングライターのHana Hopeさんが登場! 3月19日(水)にリリースされたメジャーファーストアルバム『Between The Stars』について語りました。


ジョージ・ウィリアムズ、Hana Hopeさん、安田レイ



◆アルバムタイトル『Between The Stars』に込めた思い

――『Between The Stars』はどんなアルバムになりましたか?

Hana Hope:とにかくたくさんのジャンルが入っていて、アニメとのコラボレーションや自分で作詞・作曲した曲、多彩なアーティストとのコラボ曲など、いろいろ詰まっています。2年ぐらいかけて、自分自身も成長しながらさまざまなジャンルをエキスポートして作ったので、とにかくHana Hopeのいろんな面が見られると思います。そこも楽しみながら聴いてみてください!

――アルバム制作期間はいかがでしたか?

Hana Hope:私自身は成長のときだったし、声も変わっていくなかで歌っていたので“これは私が行きたい道なのか?”とか、いろんな疑問と向き合いながら作っていました。チャレンジではあったんですけど、作り終えたことで私が思うアーティストに一歩近づいたかなと思います。

――普段はどのように曲を作っているのですか?

Hana Hope:ギターかピアノを使って、自分の時間がいっぱいある深夜に静かな場所で作っています。

――アルバムのタイトル『Between The Stars』はどういう思いでつけたのですか?

Hana Hope:日本語に訳すと“星のあいだ”という意味があるんですけど、星のあいだって暗闇だから“ちょっとだけある不安”を表現しています。でも、その暗闇があるからこそ、より星が輝けていると思っていて。星が爆発して再生してまた生きるように、アルバム制作中はいろんなジャンルにトライしたので、それを表せるタイトルにしたいと思って『Between The Stars』に辿り着きました。

――どんなときに思い浮かんだのですか?

Hana Hope:私は星のようなモチーフが大好きで、タイトルについてすごく迷っていたときに夜空を見ていたら“暗闇って素敵だな、魅力的だな”と思って、このタイトルが思いつきました。

――アルバムの曲順はどうやって決めましたか?

Hana Hope:アルバムを聴きながら、どんなムードになるかを考えながら決めていって、はじめはアップビートで心がエキサイトする曲を集めて、最後にはメロウでエモーショナルな気持ちで終われるようにしました。また、最後の「UnSaid」はギターが中心の曲なんですけど、自分が次にやっていきたいジャンルを見せたくて、「UnSaid」みたいな曲をこれから作っていきたいので、それをアルバムの最後に持っていきました。

次回3月29日(土)の放送は、[Alexandros]の川上洋平さん(Vo&Gt)をゲストに迎えてお届けします。

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3月22日放送分より(radiko.jpのタイムフリー)
聴取期限 2025年3月30日(日) AM 4:59 まで
※放送エリア外の方は、プレミアム会員の登録でご利用いただけます。

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<番組概要>
番組名:JA全農 COUNTDOWN JAPAN
放送エリア:TOKYO FMをはじめとする、JFN全国38局ネット
放送日時:毎週土曜 13:00~13:55
パーソナリティ:ジョージ・ウィリアムズ、安田レイ
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/cdj/

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