宇多丸、『ペトルーニャに祝福を』を語る!【映画評書き起こし】

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

 

宇多丸:さあここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、5月22日から公開されているこの作品、『ペトルーニャに祝福を』

北マケドニアを舞台に、女人禁制の伝統儀式に偶然参加してしまった女性が思わぬ騒動に巻き込まれていくドラマ。北マケドニアの小さな街に暮らす32歳のペトルーニャは、ある日偶然、地元の伝統儀式に遭遇。思わず儀式に参加し、幸せが訪れるという十字架を手にするが、女人禁制の儀式に参加したことで、周囲から猛反発を受けてしまう。ペトルーニャを演じるのはゾリツァ・ヌシェバさん。監督は本作が長編五作目となる女性監督テオナ・ストゥルガル・ミテフスカさんです。

ということで、『ペトルーニャに祝福を』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少ない」。まあ、これはしょうがないね。都内は岩波ホールのみの上映ですからね。

なんですが、賛否の比率は、およそ8割が褒める感想。主な褒める意見としては「女性差別や抑圧的な母親、警察などに対し立ち向かっていく主人公の姿がいい。爽やかなラストに拍手!」「テーマは重いがユーモアがあり、日本人でも共感できる普遍的な映画になっている」「終盤、ペトルーニャの目に宿る強い光。ゾリツァ・ヌシェバさんの演技がすごい」などがございました。

一方、否定的な意見としては、「やりたいことが仕事にならないからと、32歳まで無職でいた主人公。物語の発端となる行動も含め、共感できなかった」とか「女人禁制の宗教儀式と女性差別とを一緒くたに語っており、論点がずれていると感じた」などがございました。

■「今の日本で起きていることとまるで同じような社会の有り様を映し出している」(リスナー)

代表的なところをご紹介しましょう。「これからお迎え」さん。

「賛否でいえば<賛>です。世界の今をしっかりと切り取った佳作、意欲作でした。驚いたのは、旧ユーゴのマケドニアという、遠く離れた国で撮られた作品が、今の日本で起きていることとまるで同じような社会の有り様を映し出しているところです。

主人公の人物像はとても身近なものですし、娘の行く末を心配する両親のたたずまいも、世界共通のものなのだと思い知らされます。『十字架を取ることができるのは男性だけ』という、深く考えると理由の分からない『決まり』も、今の日本社会を生きる中で何度も目にしたものです。ですので、原題となっている『GOD EXSITS, HER NAME IS PETRUNYA』の真意が解き明かされる終盤には、はっとさせられました。神の代名詞にHISではなくHERを当てるという発想自体、これまで考えもしてこなかった私自身の凝り固まった『決まり』に気付かされたからです。

ところで、私は報道の仕事をしており、これまで日本各地の数多の警察署にお邪魔したのですが、マケドニアの警察署の雰囲気が日本のそれと全く変わらないことにも驚きました。また、女性記者が子どものお迎えを巡って夫と押しつけあいをする光景には、思わず苦笑いしてしまいました。自分自身も経験がありますし、悲しいかな、周囲でもよく見かける光景です。なお、岩波ホールの初日で、上映前に支配人の岩波律子(いわなみ・りつこ)さんがご挨拶され、簡単な作品紹介をしてくださったのも(それに拍手が起きたことも)『映画館での体験』という感じがして良かったです」。

ああ、やっぱり岩波ホールならではですね。これね。もう1個、褒めメールをご紹介させてください。「おれにゃん」さん。

「本作、自分にとっては、「娯楽としては期待外れ、でも一見の価値がある映画」でした。というのも、私は本作に対して、「女性についてのシリアスなテーマを扱いながらも、コミカルさやテンポの良さで楽しく見られる作品」を期待していたからです。序盤はその期待どおりだったのですが、中盤からは警察署内での会話が続き……」。まあ、膠着状態だからね。

「何度か眠気におそわれました。では、見て損したかというと、そうは思いません。遠い国で作られたこの小さな映画に強い普遍性を感じたからです。ペトルーニャに対する各年代の男性たちのからかい、罵倒、セクハラ、マンスプレイニングは、日本のSNSで毎日目にする発言する女性への反応にそっくりだと思いました。最も印象的だったのは、ペトルーニャの内面に起きる決定的な変化が、主演俳優によって体現されていた点です。

自分には尊厳がある、誰にもおとしめられるいわれはない。そう自覚したペトルーニャの眼差しの強さ、漂う気高さが心に残りました」というご意見でございます。

■縁遠い北マケドニアの映画ながら……「これ、うちの国でも起こりうる話かも」

ということで、皆さんメールありがとうございます。私も岩波ホールで2回、見てまいりました、『ペトルーニャに祝福を』。岩波ホール、本当にね、申し訳ないけど超久しぶりでね。下手したら85年の『ファニーとアレクサンデル』以来かな?っていうね。すいませんね。なんかちょっと、あれだけ90年代、神保町に入り浸っていながら、なんかちょっと一時期、お堅いイメージで敬遠しがちだったという。まあダメな食わず嫌い映画ファンでございました、って感じなんですけどね。

ともあれ2019年、北マケドニア映画というね。正確には北マケドニア、フランス、ベルギー、クロアチア、スロベニア合作ですけど。まあ、舞台も含めて北マケドニア。旧ユーゴスラビア、バルカン半島のちょっと上の方の内陸部、って感じですね。で、1991年にマケドニア共和国として独立したんだけど、ギリシャと国名を巡って……皆さんもね、アレクサンドロス大王とかで「マケドニア」っていう土地の記憶があると思いますが、国名をめぐって大モメして。まさに2019年、だからこの映画が作られた年に、「北マケドニア」という風に正式名称を改めた、という国ですね。

……なんてことも、恥ずかしながら僕はいまいちよくわかってなくて、今回このタイミングで、それこそ劇場で販売されているパンフにもそういう情報が載っていて、ようやくちょっと知った程度なんですけども。いずれにせよ、日本にはあまり馴染みがない国、というのは間違いないかな、と思うんですけど。

この『ペトルーニャに祝福を』という映画、我々日本の観客にとっては、もちろん異郷の地の風景や習俗、物珍しく見れる、という部分もあるにはあるんだけど……それ以上に、これはもう本当に皆さん、メールで書かれている通りですね。「これ、うちの国でも起こりうる話かも」「同じような構造や体質、全然普通にすぐそこにあるかも」とか。なんなら、実際に起こったある具体的な事件さえ想起させたりとか。

要は、全く他人事ではなく響くところが多い、という。非常に普遍的な射程を持った作品である、と言えると思いますね。つまり、言っちゃえば父権主義的というか、男性優位主義的、すなわち翻って性差別主義的なもの、考えが、まだまだ根強い社会であったりとか。女人禁制の伝統っていうのも、根強くあちこちに残っていますよね。

■「伝統」や「宗教」は何のために、誰のためにあるわけ?

で、一番それのあまりよろしくない例で言うとやはり、相撲の土俵上で、具合が悪くなった人を救命救助するために土俵に上がった女性に対して、降りろ、降りろってアナウンスをした挙句、最後に塩をまいて終わるっていう。この「塩をまく」っていう時点で……伝統は伝統でもちろんそれは結構なんだけども、その「塩をまく」っていうのははっきり、要するに差別的な、「穢れ」の思想ってことですよね。そういうところまで無批判に受け継ぐ……無批判ですね。非常にね。自動的にやってるわけで。救命のために土俵に上がった人に対して「穢れ」として扱うっていう。

何のために、誰のためにその「伝統」や「宗教」というものはあるわけ?って思わざるをえないような、そういう数年前のあのひどい事件があったりとかしましたしね。まあ、劇中でもね、「女は穢れている」なんてことをわめく男性がいっぱい出てきました。しかも、その男性に、あえてちょっとキリスト教の……「キリストの絵」風の風体をさせているあたりにもまた、挑戦的なものがあったりしますけども。あるいは、そもそも女性がその社会の構造の中で甘んじなければならないように仕向けられている、というか、なっている、不当に弱い立場、軽んじられている立場とか。

とにかく諸々が、この映画で描かれている2018年の北マケドニアと……ねえ、「2018年の北マケドニアはまるで中世の暗黒時代です」なんて言ってたけど、我々が暮らすこの2021年の今の日本も、残念ながら非常に共通点が驚くほど多い、ということがわかる映画でもあってですね。そしてこのペトルーニャは、その理不尽な、アンフェアな抑圧に対して、強烈な一撃を……特にラストのラストで、「お見事!」っていう感じで食らわしてくる、というね。実はやっぱり、非常に痛快な作品でもあると思います。

■なぜペトルーニャはかくも捨て鉢になっているのか?

順を追ってお話していきますけども。まずはド頭。ファーストショットからして、かなり攻めてるというか、挑戦的ですね。非常に引いたカメラで、水の入っていないプールの真ん中に立っている主人公。これ、監督の弁によれば、水の上を歩いたというキリストとの、対比でもあるようなこの意味深なショットに、これは映画.comの監督インタビューで、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカさん、監督インタビューによれば、DERKAというパンクバンドによる、すごい激しい攻撃なロックが重なって。それでタイトル、先ほどから言っているように原題『神は存在する、彼女の名はペトルーニャ(God Exists, Her Name Is Petrunya.)』が、ドーンと出る。

この時点で結構、ちょっとキリストと対比するような立ち位置とこのタイトル、非常に攻めている。ちなみにこのタイトル、舞台となったその地方都市、シュティプという、そこの地元教会に撮影協力のために連絡を取ったら、「全然協力はできない。なぜなら神は男だからだ!」と返答が返ってきたという、このタイトル。さっきも言ったようにですね、このタイトルがラストのラスト、もう1度出るところで、ものすごい深い意味を持ち直すというか、深い問いを観客にガーンと投げかけてくる、というのがこの映画のまさにキモの部分だと思いますが。それについてはまた後ほどね、ちょっと言いたいと思います。

とにかくこの主人公のペトルーニャ。これを演じるゾリツァ・ヌシェバさんという方。コメディなんかにも出られているような方らしいんですけども、長編映画は初めてで。ふてぶてしさの中に、どこかこうユーモアも漂う雰囲気が、個人的にはやっぱり、『ブックスマート』主演の、ビーニー・フェルドスタインを連想させて。勝手にちょっと親しみを感じていたりしたんですよね。だから、言っちゃえば『ブックスマート』のあの主人公たちが、北マケドニアに生まれていたら、こういう立場だったかもしれないよ、というような見方。

とにかくそのペトルーニャ、最初はその、シーツの中に寝転がったまま、母親が差し出してくる、パンなのか何なのか、まあカリカリ音がするあれをむしゃむしゃ食べたり……まあ、どこか捨て鉢な態度なわけです。ただ、さっきの山本匠晃さんのあれも面白かったですね。でも食べ方そのものは品がいい。つまり彼女は、後ほども言いますけども、ちゃんとインテリなので。なんだけど、ちょっとどこか捨て鉢な様子。なんで捨て鉢になっているのか?っていうのが、その後、だんだんと明らかになっていくわけですけど。

ざっくりと言ってしまえば、やっぱり自己肯定感が非常に地に落ちている……というか、もっと正確に言えば、寄ってたかって自分をおとしめようとしてくるかのような、自分の価値をハナから認めようともしないような、世の中のあり方全体にウンザリしてるから、ってことですよね。でもそこに対峙しなきゃいけないから、ウンザリしてる、という。で、途中で明らかになるわけですけど、彼女にはもちろん、しっかりした学歴があって、成績も優秀だった。にも関わらず、ここまで定職には就けなかった……っていうのはもちろん、その北マケドニア全体の若年失業率が高いという、実際の社会問題があるみたいで。それも向こうに透けて見えますよね。

あと、やっぱりその大学を出ても、ちゃんとした学歴があっても、就職がもはやままならない世代、という意味では、やっぱり日本もだいぶそういう問題もね、ちょっと通じちゃったりしてますけど。

■資本主義的な「生産性」に寄与するものだけにしか社会の居場所が与えられない

その後、縫製工場の就職面接に行くんですけど、そこに至る一連のシーン。「年齢を若くサバ読んどけ」ってアドバイスするあのお母さんも含めてですね、ひとつそこから浮かび上がってくるのは、やはりルッキズム、エイジズム、あとはごりごりのセクハラまで含めた、まあ女性の社会的位置づけにそもそも組み込まれた、差別の構造、ってことですよね。

差別的なところに乗っからないと、受け入れてもらえない、っていう、そもそも不利なルールっていうか、そもそも不公正なルールっていうところが浮かび上がってくる。これ、『装苑』に掲載されている鈴木みのりさん、火曜日もお世話になりました鈴木みのりさんによる、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督インタビューによれば、この縫製工場のシーンについて、監督はこんなことを言っています。「男性と女性の不均衡さを際立たせるため、ボスのガラス張りの部屋を作りました。その中でリラックスしている彼の周りには奴隷のように働いている人たちがいるという画にすることで、この街における女性たちの経済的なポジション、立ち位置について示唆したかった」とおっしゃっている。

で、実際にその北マケドニア、収入にやっぱり性差による格差がはっきりある、というようなこともおっしゃっている。そのへんも完全に日本ともね、残念ながら通じてしまっているし。あとは僕はここの場面で感じたのは、資本主義的な「生産性」に寄与するものだけにしか社会の居場所が与えられない、という構造。で、学問や知性、わけても女性のそれというのは軽視される。だから、「ああ、歴史なんか学んじゃったの? ああ、そう」みたいな……「で、なに? 君はそんな歴史なんか学んでもなんにもならないし。別に性的にも魅力がないし」みたいなところでジャッジする、というような。ひどい話なんだけども。

なのでこれ、(リスナーメールの一部に)散見された、この主人公に対する否定的な意見には、主人公が置かれた、もっと言えば女性全体が置かれた全体の構造としての不公正、というところに、もうちょっとその、俯瞰した視点があってもいいんじゃないか?みたいな風に、僕は正直、それらのメールを読んでいて思ってしまったあたりなんですけどもね。そんなことをもう1回、考え直していただきたいな、なんて思いましたけど。

■女人禁制の伝統行事と言いつつ、最初は司祭は常識的な反応をしている。それが……

とにかくですね、このもう最低最悪の、しかも残念ながら確実に我々も見覚えのある現実の反映である、この面接シーン。本当に最悪なんですけど。でですね、そもそもその、さっきから言ってるように、ハナから勝ち目のないルールを押し付けられている中で、負け犬とされてきた主人公ペトルーニャの絶望と怒り。これが観客の頭の中にも共有されているからこそ、ここが本当にひどい場面だからこそ、その後のですね、「私にだって幸せになる権利はあるはず!」という、そこからの咄嗟のジャンプ……つまりその、東方正教を信仰する東ヨーロッパ全体で広く行なわれているという、その司祭が十字架を川に放り投げて、それをバシャーンと川に入っていって、最初に取った人に福が訪れますよ、っていう伝統行事。

これは日本のね、たとえば神社仏閣とか、そういう仏教とか神道とかでもありそうな、なんか裸の男たちがどこか入っていって、ワーッ!って、「福男だ!」みたいな、まあ、ありそうな感じなんですけど。それ自体はまあ、伝統行事として微笑ましいもの、としてもですね。そこに思わず飛び入りしてみたら、ラッキー!十字架、ゲット!っていうこのくだり。先ほどから言っているように、やっぱり彼女は、「あんなひどい目」にあった後なので。観客としても共感がわくようになっているわけです。まあせめてもの「福」……あんな目にあった後なんだから、こんな救いを求めても、文字通り「バチは当たらない」でしょう?って気持ちになってるわけです。

しかしその行事は、実は女人禁制で……ただ「女人禁制」って言うんですけども、このペトルーニャが十字架をゲットしたっていう、その直後にはですね、そのイベントを仕切っている東方正教の司祭もですね、それを横取りして優勝者ヅラしている悪そうな青年とその取り巻きに対して、「彼女に十字架を返しなさい!恥知らずだ!」なんて呼びかけていたりもして。その程度ではあるんですよね。だから「女人禁制だ! ギャーッ!」っていうよりは、「いやいや、取ったのは彼女だから。横取りしちゃダメでしょ?」って、その司祭自体が言っている程度ではあるわけですよね。

で、またこのバランスが……直後には全然常識的な反応をしていた人が、っていうところも、実はリアルだな、っていうか。その場ではみんな、比較的フラットだったのに……みたいなのは俺、現実でもあるかな、と思うんですね。すごくこのへんが上手いなと思いましたけど。

で、その、女性が十字架を取ったということを認めようとしない男たちの、あまりの暴力的な剣幕……これ、まずこの時点で、どれだけ伝統行事であろうとも、その非常に暴力的な剣幕で女性にこうやって押し寄っているという、その時点でもう、醜悪なものに成り下がってしまっている、ということは明らかだと思うんですよね。

だから、この時点で司祭が、圧倒的に叱って止めたりしなきゃいけないんですけど。やはり本来の責任者である司祭が事態を収拾しようとしない中、できない中で、ペトルーニャが逃走、帰宅してしまうのも、これはまた無理からぬっていうか。あんなところにいたら……でも、悔しいし!っていう。そういう風に思えるわけですけども。家に帰っても、お母さんが……これはお母さんは、おそらくその共同体の同調圧力に背くことが、どれほど危険、苦難を招くかということを、肌身で知ってるから。つまり、非常に、今以上に旧態依然とした社会の中で、制度を内面化することでかろうじて生き残ってきた身、世代だからこそ、娘の行動を非常に、完全否定してしまう。

で、警察を呼んできてしまうことで、さらに状況がこじれていく、ということになるんですね。

■「羊」から「オオカミ」へ変貌するペトルーニャをふたつの視点で切り取る

で、ここから舞台は警察署に移って、ペトルーニャは法的根拠がないまま勾留され、尋問されることになる。で、これは要するに、事態そのものは膠着状態なんだけども……様々な角度からのハラスメント、時には直接的な暴力にさらされるという彼女に、しかし誰1人として、十字架を返上すべき合理的説明ができず。ちょっと言い返されると逆ギレしたり、話を逸らしたり、逃げたりするばかり、という。で、そのたびに彼女は、自分の信念をむしろ強固なものにしていく。

つまり、冒頭のですね、非常に受け身な体勢だった、捨て鉢なだけで、社会に対しての被害者なだけだった彼女が、どんどん能動的な……つまり「羊」から「オオカミ」へ変貌を遂げていく、成長していく、というそのプロセスをですね、このテオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督は、タイトルのその『神は実在する。彼女の名はペトルーニャ』という……このタイトルそのものが二段構えですよね。「神は実在する」「彼女の名はペトルーニャ」という。この二段構えそのままに、大きく言って2つの対照的な視点から、これを切り取ってみせる。

ひとつは、彼女の顔に極端に寄ったアップですね。言うまでもなくそれは、彼女の主観的な心情に寄り添ったもので。特に、彼女がやはり精神的圧迫を受けている時に、非常に効果的に使われる……この彼女のアップのところは、画面の外側から、男たちの罵声が聞こえたり、グーッと、ただでさえアップなのに、ものすごい顔を近づけてすごまれたり、という。挙句の果てに……というような感じの場面に使われる。

もうひとつは、これは「ぴあ」のインタビュー記事の中で語られていたことですけども、監督、こんなことを言っています。「カメラを引いた構図を多用したのは、本作がペトルーニャを『聖人』のように撮りたいと考えていたからです。宗教画やフレスコ画では聖人は絵画の真ん中にいます。また宗教画は繰り返し、三位一体の要素が登場することにも留意してフレームを決めて、ペトルーニャを画面の中心に配置し、3つの要素が画面の中に並ぶようにしたのです。私はこの映画で彼女が起こす変化が<個>を超えたものとして観客を受け取ってもらいたい。そう思って宗教画のようなフレームとアップの構図。この2つのコンビネーションで映画を構成してきました」ということをおっしゃっている。

この「ぴあ」インタビューでの発言を意識して改めてこれを見てみると、たしかに、非常に計算され尽くしたショットと編集の流れでできた映画であることが、よく分かります。先ほど言ったようにね、構図。その三位一体を意識した構図取りっていうのもそうですし。たとえば警察署内の中で、これは後半の方で出てくるものなんですけど、ガラスで仕切られた3つの部屋があって。一番奥には、イキり倒している輩たちがいるわけです。「十字架を返せ!」って言っている輩が。

真ん中には、全く無力に、事態を収拾することもできず、そしてペトルーニャに向かい合うこともせず、ずっと、たぶん組織の上の人に電話している司祭が、ウロウロウロウロしている。で、その手前にペトルーニャがいる、っていう。このレイヤーですね。3層になったあれっていうので、このいま起きている事態を構造化して見せる、というこの構図の見せ方とか。非常に上手い構図があったりする。

■ラストシーン、ペトルーニャが歩いていった先に我々が生きるこの世界は続いている

でですね、先ほど監督が言っていた「個を超えた話である」という点はですね、終わり近く、立場や年齢の異なる女性キャラクターたちを、主人公の、先ほどから言っているその聖人的な引きのショットから、並列して見せていく、その部分で、より明確なメッセージとして打ち出されていると思います。要するに、立場は違う、意見もちょっとずつは違う、でも彼女たち全体が、やはりこの北マケドニアの社会の構造の中に置かれて生きてきた女性なんだ、ってことが見えてくる。

またその単純な男VS女の二項対立にならないよう、まさにこれは鈴木みのりさんに教えていただきました、「インターセクショナリティ」を意識しているような、その各キャラクターの配置というのもですね、非常に周到なものがあると思います。そんなこんなの騒動の果てにですね、辛うじてというか、いろんな嫌なことがあった果てに、でもちゃんと自己肯定感をだんだん取り戻して……その果てに彼女、最後の最後にペトルーニャが胸を張ってする、ある決断。

これがですね、劇中ずっと見ている間……やっぱり見ている僕らも、疑問なわけですよ。もう浮かんでしょうがない。伝統とか、宗教とか、もっと言えば神って、じゃあ何のために、誰のためにあるわけ? こんな、人にすごんだり、暴力を……理由も説明できない不公正を人に押しつける。何のためにあるわけ?っていうように疑問が、ずっとあるわけですけど。その根源的な問いに対する、鮮やかな、しかし痛烈な回答が、最後の主人公の選択によって、バーン!ってあるわけですね。再びここでタイトル『神は存在する。彼女の名はペトルーニャ』。この言葉が、より重い意味、重い問いとなって、こちらに響いてくる。

ここはもちろん、さまざまな解釈が可能だと思います。彼女こそが本来のキリスト教の教え……これこそが、彼女の振る舞いこそが、本来のキリストの教えに近いものなんじゃないの?というような解釈もできるし。自分こそが自分の神だ、自分が選び取った行動、生き方をする自分こそが自分の神なんだ、という風にも解釈できる。いろんな解釈ができます。ちなみに今年、セルビアでですね、同様の儀式があった時に、女性がその十字架をゲットして、ここでは見事、そのまま祝福された、ということがあるらしいです。

まさに、つまりこの映画の先……ラストでペトルーニャ、向こうにね、雪の上を歩いている。この雪っていうのもね、冒頭のその、水のないプールとの対比で考えるならば……とか、いろいろと考えちゃいますけど。雪の上をこうやって1人、向こうに晴れやかに去っていった、そのペトルーニャが歩いていった先に、世界は続いている。我々が生きるこの世界は。ということが現実に起こってるんだな、っていう風なことがわかるかなと思いますね。

ということでですね、非常に僕は……ストレートに面白かったですし。そのコミカルな部分、嫌な気持ちになる部分も含めて面白かったし。特にラストの切れ味は、忘れがたいものがある。

そのラストによって一段、「ああ、これは実はすごい映画なんじゃないかな?」なんてことを思ったりしました。そしてもう1回見返すと、やっぱり監督の周到な演出に、改めて舌を巻いたりしました。明らかに、残念ながら現在の日本とも地続きであるこの作品、ということで、ぜひぜひ岩波ホールで、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『茜色に焼かれる』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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ヨーロッパ企画、新作舞台は「傑作を見せられる」 『インターネ島エクスプローラー』金丸慎太郎、金子大地、上田誠インタビュー

ヨーロッパ企画第44回公演『インターネ島エクスプローラー』が現在、東京・下北沢の本多劇場にて上演中。

上田誠、金子大地、金丸慎太郎

今作のテーマは“冒険”。未踏のジャングル、天をつく絶峰、到達不能な極地。かつては冒険家たちをたぎらせたこれらの舞台も、今はすっかりシステムの中。地表はGPSに覆われ、ネットワークがゆきわたり、地理的空白は埋められ、指先ふたつで世界のどこへでも分け入れるようになっていた。そんなある日、屋根裏から見つかった祖父の日記に「絶対に× 印のところへ行くなよ」という警告と、手描きの海図が残されており——。

このたび、システムでさえ到達できなかった未踏の地へと足を踏み入れる冒険家役を演じる金丸慎太郎、同じく冒険家役でゲスト出演する金子大地、そして脚本・演出を手掛ける上田誠にインタビュー。ヨーロッパ企画に欠かせないエチュード稽古の様子のほか、上演への意気込みなどを聞いた。

――今回の舞台となるのは、まさかのジャングル。この物語を思いついたきっかけは何だったのでしょうか?

上田:昔からずっと「いつか南太平洋あたりを舞台とした話をやってみたいな」と思っていました。そして今作は、金丸くんがヨーロッパ企画に正式に入団しての初舞台。記念舞台ということで座長をやってもらおうと思った時に、物語に彼のパーソナルな部分を加えたいと考えたんです。金丸くんは世界一周旅行をしたり、海外でヒッチハイクもできちゃう人なので、「冒険」というテーマが合うと思ったのがきっかけになっていますね。

――ヨーロッパ企画にとって「入団公演」となるのも珍しいです。入団前からの関係値があったからこその舞台になりそうですね。

上田:以前からヨーロッパ企画の舞台に出ていたからこそ、むしろ「入団公演」と謳わないと誰も気づいてくれないんじゃないかと思って。たまには大々的にアピールしてみてもいいんじゃないかと思いました(笑)。

――金丸さんは「入団公演」「座長」と聞いた時にどう思いましたか?

金丸:本当にありがたいことだと思います。とんでもないギフトをもらったような気持ちですね。以前より参加してはいますが、改めて「賑やかなやつが入ったな!」と思ってもらえるように、いろいろな表情・芝居を見せていかなければならないなと気合が入りました。

――今作のプロットを読んで、どんな感想を持ったかも聞かせていただけますか?

金丸:冒険がテーマとは聞いていましたが、まさかジャングルが舞台になるとは(笑)。

上田:28年も脚本を書いていると、そういうバカバカしいことに抵抗もなくなってきて(笑)。少し前までは「ジャングルを舞台にする」とか「ヘビと戦う」なんて、バカにされると思って書けなかったと思います。ですが、今はもう何の恥も外聞もありません。ヘビと戦うのは主に2人(金丸&金子)なのですが、めちゃめちゃ面白く演じてくれていて。書いて良かった(笑)!

金子:しかも、そのヘビに関しては“とある伏線”になっているんですよね。

上田:そうなんです。後半に回収するシーンがあるので、ぜひ楽しみにしていただけたら。

――金子さんは、ヨーロッパ企画の舞台に初出演となります。上田さんの描くスケールの大きい物語の印象はいかがでしょうか?

金子:スケールが大きすぎて、最初はまったく頭が追い付きませんでした(笑)。それから資料を読んだり、モアイ像について勉強をしたりして、少しずつイメージが湧いてきたところです。ただ、上田さんの書く物語って、スケールは大きいけれど会話はとても日常的なんですよね。そのギャップが面白さの1つだと思っていて、演じている僕自身も毎回楽しんでいます。

――ヨーロッパ企画の舞台ならではとなっている、エチュード稽古はいかがでしょうか?

金子:とても面白いです! 緊張しないような空気感を劇団員の皆さんが作ってくれて、さらに僕が何をしても拾ってくれるんです。その安心感があるからこそ自由に挑戦できるし、その結果、僕自身が知らなかった表現も見つけることができました。その新たな発見が楽しすぎて、毎回キャラが変わっちゃうんですよね(笑)。

上田:毎回いろいろなパターンを見せてくれて、こちらこそアイディアが膨らんでいます。

金丸:すごく嫌なやつの時もあれば、めちゃめちゃ弱弱しい時もあったりしてね(笑)。

――金丸さんと金子さんは、ライバル冒険家役。2人で掛け合うことが多いそうですが、金丸さんは金子さんの毎回変わる芝居に応えるのは大変ではないですか?

金丸:まったく大変ではありません。それがヨーロッパ企画のエチュードの醍醐味ですからね。金子さんはエチュードの経験が少ないと言っていましたが、そうとは思えません。めちゃめちゃ面白い! エチュード慣れしているメンバーが毎回笑っているので、自分も負けてられないなと思わされます。

上田:毎回同じパターンだと、メンバーが笑わなくなるんだよね(笑)。

金丸:そうなんですよ! 誰も笑わないとやっぱりショックなので、笑いがほしくて頑張っています(笑)。

金子:僕としては、金丸さんが困れば困るほど面白くなるというのがわかってきたので(笑)。金丸さんをもっと困らせられるように頑張ります!

金丸:僕が困っていると楽しそうな表情をするなと思っていました(笑)。

――エチュードの様子を聞いているだけでも、2人の関係性が役にマッチしていると感じます。上田さんは、なぜ金子さんを金丸さんのライバル役にキャスティングしたのでしょうか?

上田:金丸さんを基準に物語を考えていくと、この主人公に強力なライバルが必要だと思いました。それまで金子さんとお会いしたことはなかったですが、以前に僕が脚本を書いたドラマ『魔法のリノベ』に出てくださっていたことを思い出し、そこで演じてもらった役が、僕の思い描いていたものを「凌駕した」と言っていいくらいのレベルで面白く仕上げてくれいたんです。それで今回、出演オファーをさせてもらいました。

金子:うわ、うれしすぎる……!

上田:ヨーロッパ企画のコメディには、だいたいシチュエーションに翻弄されるキャラクターが登場します。今回は金子くんの役がそうなるかと思っていたら、エチュードを膨らませた結果、そうならなくて。またまた僕の構想を凌駕する芝居を見せてくれて、お呼びして本当に良かった! ただそのせいで、金丸さんの役をもっと勇ましくさせるはずが、そうじゃない方向に(笑)。しかし、それが面白いバランスを生んでいて、物語としても当初のイメージ以上のものになっています。

――呉城久美さんもゲストとして出演しますが、キャスティングの理由は?

上田:呉城さんはヨーロッパ企画の別ユニット「イエティ」の劇に2回ほど出てくださっていますが、存在感がすごくて。僕の勝手なイメージなのですが、金丸さんは普段の延長の姿で舞台に立つ一方、呉城さんは普段の様子からは想像できない姿で舞台に立たれる印象があります。その対象的な2人がステージに揃い立つのが面白そうだと思いました。

――音楽を担当される王舟さんも、ヨーロッパ企画の舞台に参加するのは初めてですが、ドラマでは何度かご一緒されていますね。

上田:王舟さんは、音楽におけるファッションコードのようなものを自在に操ることができる方です。どれを聞いてもまったく違った印象を受ける音楽を作られていて、今回の舞台に求めているエキゾチックな世界観も表現してもらえるのではないかと思いました。「今作のCM用にデモをいただけませんか?」とお願いしてみたところ、なんとパターンの違う楽曲が7曲も送られてきて……! 王舟さんも僕のイメージを凌駕して、作品世界を広げてくださる方でしたね。

――“冒険”をテーマにしているということで、3人が今後やってみたいこと/行ってみたい場所などをうかがえますか?

金丸:僕はもう、地理的な冒険はお腹いっぱいです。向こう10~20年は旅行も行かなくていいくらい(笑)。挑戦という意味では、もう10年以上も関わっているヨーロッパ企画の皆さんに「こいつにまだこんな引き出しがあったとは!?」と驚いてほしいですね。せっかく入団させてもらえたので、ヨーロッパ企画の新たな可能性になれるように頑張ります!

上田:最初の人から抽象的な話が出ちゃったな~(笑)。

金子:ごめんなさい、僕も抽象的なことになっちゃいます(笑)。僕は、アウェイな現場を冒険したいですね。この仕事をしていると、よく「アウェイって面白いな」と思うんです。もちろん悲しいし切ない気持ちにもなるのですが、それが踏み台になって、良い芝居になったりするんですよね。いつか、言葉の通じない国でエチュードをやらされてみたい(笑)。自ら進んで挑戦するのではなく、“やらされる”というのが大事。そのアウェイ感を常に感じて、成長していきたいです。

上田:僕はもともと地理的な冒険はしないのですが、“読書の冒険”はよくします。自分ではない人の書いた言葉を辿って歩く作業って、かなり負荷がかかりますよね。ただ、自分の中にはない“その人の世界”に連れて行ってもらえているようで、大いなる旅に出ている気分になります。

――本作は過去最多の全14都市を回ります。公演を楽しみにしている全国の方々へ、メッセージをお願いします。

金子:歴史あるヨーロッパ企画の舞台に参加できること、劇団の皆さんと一緒に芝居ができることは、大変光栄なことだと思っています。こんな長い期間に上演される舞台に出演するのは初めてで、僕にとってターニングポイントとなる作品になるのではないでしょうか。思い残すことがないくらいの芝居をぶつけて、発散しようと思っています。そんな僕の全力を、来てくださる皆さんにぜひ楽しんでほしいです。

金丸:まったく守りに入っていない、オルタナティブで攻めの姿勢の新作公演をお届けできると思っています。脳をガツンと殴られたような感覚になりたい人、大笑いしてスカッとしたい人はぜひ観に来てください!

上田:日々脚本を書いていると「これはもうダメだ」という気持ちと「最高傑作だ!」という気持ちが交互に訪れます。「超面白いネタを思いついた!」と思ってメモしても、次の日には「なんだこれ」となることが多いのですが(笑)……今作は、その「もうダメだ」や「なんだこれ」の気持ちになっていないんですよね。観に来てくださる方には、おそらく傑作を見せられるのではないかと思っています。期待していてください。

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