「松坂大輔=平成の怪物」世代には、それぞれの物語がある。

「今日、晴れて中日ドラゴンズの一員になりました」。平成30年1月、松坂大輔、入団記者会見での第一声である。集まった報道陣の多さに注目の高さが伺えた。「名古屋の街になじめるように、楽しみながらやっていきたいと思います」。新しい土地での再スタートである。松坂から「名古屋に行くからよろしくね」と連絡を受けた男がいた。本橋紳一郎38歳。愛知県で、スポーツ選手のマネージメントの傍ら、接骨院、飲食店などを経営する実業家。元高校球児で、いわゆる「松坂世代」のひとりである。

人生を変えた悪送球

本橋には、忘れられない試合がある。平成10年夏の甲子園、PL学園対横浜の準々決勝。延長17回、二死無走者からPL遊撃手の悪送球で走者が出て、次打者の本塁打が決勝点となった。その遊撃手が本橋であった。松坂が250球を投げて伝説となった試合でのことである。その体験が、その後の本橋に大きな影響を与えることになる。メディアで大きく取り上げられたことで、本人の気持ちとはかけ離れた「野球を止めないで」という内容の手紙が数多く届く。大学野球部時代は、以前のように体が動かない「イップス」にも悩まされた。高校時代に起因する心理的要因も、プロ入りを諦める理由になった。

そして、名古屋での再会

日本プロ野球、米大リーグで輝かしい成績を残した松坂。社会人となり、その活躍を見続けてきた本橋。松坂と本橋。面識はあったものの、頻繁に連絡を取り合っていたわけではないという。そのふたりが、松坂のドラゴンズ入りをきっかけに、ぐっと距離を縮めることになった。沖縄キャンプ後、松坂と本橋は、名古屋で毎晩のように、食事を共にしながら語りあった。本橋は「話している限り、本人の中では自信があるんだなと強く感じた」と言う。松坂世代のひとりとして、同世代の友人たちへ情報を発信する立場になった本橋。同時に、同世代の思いを、本人に伝える役目も担うことになった。

本橋の見た怪物復活

4月5日 ナゴヤドーム 中日-巨人戦。マウンドに立った松坂。実に550日ぶりの公式戦。駆けつけた本橋は、その姿にジーンときた。この試合で、本橋の心を揺さぶる場面があった。中日遊撃手・京田の一塁悪送球で失点。本橋は、甲子園でのあのシーンを思い出していた。同じ遊撃手、そして京田は同じ大学の後輩でもある。そのプレーの後、松坂は、マウンドで京田とグータッチしたのである。本橋は、京田を気づかう松坂の姿を目にした。試合後、本橋は松坂に「ああいう対応、うれしかった」とラインで伝えた。松坂からも「グータッチ 気にするな」の返信。その後二人は、会うたびにグータッチ。
4月30日 中日-DeNA戦で、松坂は日本球界12年ぶりの白星を挙げた。平成の怪物復活の瞬間だった。ヒーローインタビュー直後には、本人から食事の誘いの連絡があった。本橋は、自分からのお祝いメッセージの前に連絡を受け、「その気遣いに驚き、うれしかった」と言う。松坂の今シーズンは、アクシデントもあり、開幕には間に合わないが、早い復帰が望まれる。昨シーズン同様、その存在は大きい。平成最後のシーズンに、平成の怪物が見せた復活劇。それを間近で目にした松坂世代の野球人たち、元球児たちにとっても大きな喜びであり、励みとなった。平成の怪物・復活の陰に、それぞれの物語がある。

怪物復活の陰で
放送局:TOKAI RADIO
放送日時:2019年3月24日 日曜日 17時00分~17時30分

※該当回の聴取期間は終了しました。

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