TOMOO 1stAlbum『TWO MOON』タイトルに込めた思いは?

TOKAI RADIO『bre:eze』(ブリーズ 月~金15:00~17:00 DJイレーネ)10月16日(月)の放送に、シンガーソングライターのTOMOO(トモオ)がゲスト出演した。TOMOOの魅力は、瑞々しい情景描写と溢れ出る感情を表現する歌詞。そして、ステージでの存在感と歌声でも魅了する。

音楽を始めたのはいつ?

「どこを始めたとするかによるが、楽器を始めたのは小さい頃で、5,6歳でピアノを弾き始めた。自分で曲を作り始めて、ときどき人に聴いてもらうような機会があったのは、中学2,3年生の頃」

ひとに聴かせた最初の頃の記憶は?

「それが、今の自分の音楽活動を後押しした人だと思うが、中2のときに、普段も会っているが、あえて手紙のやり取りをしていた友だちがいた。ある日もらった手紙にすごく感動して、勢いで曲ができてしまって、返事の代わりとして曲が生まれた。できたからには聴いてほしくなって、学校の音楽室で聴いてもらった。その友だちは、びっくりしたし、すごく感動してくれた」

「それまで、自分の歌を人に聴かせたことはなかったが、その友だちが『絶対、音楽の道を目指したほうがいいよ』と言ってくれて、そこから『そういう道もあるのかな』となって、それからは、たまに、校内で昼休みに15分だけ、ライブをしたりしたことはあった。そこで歌うことがあったぐらい。あとはコンテストに出たり」

TOMOOは9月27日に1stAlubum『TWO MOON』をリリース

アルバムタイトルに込めた思いは?

「(収録されている)13曲を並べてみたときに、何か共通することはないかなあと考えて、唯一、絞り出したのが、本当の気持ちとか本当の姿だった。本当の何かみたいなものを見たがっている眼、眼差しがある気がすると気づいて、それを表現する言葉を探しているときに、たまたまレコーディング中で、スピーカーのウーファーが月に見えてきた」

「スピーカーのウーファーが黒字に白丸だったので、月見えてきた。丸い眼、眼差しが、丸二つというイメージもあるが、本当のことを見たいなと思ったりするけど、でも、意外と、突き詰めると、物事は割り切れないなあと思うこととか、何か矛盾しているなあとか」

「視力が弱いので、コンタクト(レンズ)をしていない状態で見ると、光って、ボワンと二重に見えちゃったりするし、そういうもどかしい、ひとつに絞れないような感じ、そういう気持ちを(アルバムタイトルに)込めた。本当は存在しない『二つの月』というイメージに、何となく重ねられるかもと思ってつけた」

1stAlubunは思い通りの仕上がりになった?

「想像した以上に、たくさんの人とキャッチボールをしながら『私は、このイメージを、どうしても伝えたいんです』ということを、ちゃんと共有した上で、すごく時間をかけて、最初から最後まで、こだわり切って作ることができた。心の機微とか、景色、色彩の表現として、必要だった音を組み込んだら、こういう感じになった。よかったなあと思っている」

TOMOOの全国ライブツアー『TOMOO LIVE TOUR 2023-2024』〝TWO MOON″は11月スタート。名古屋は2024年1月5日(金)DAIMOND HALL(名古屋市中区新栄)で開催。

bre:eze
放送局:TOKAI RADIO
放送日時:毎週月曜~金曜 15時00分~17時00分
公式X

出演番組をラジコで聴く

※該当回の聴取期間は終了しました。

亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

radikoのタイムフリーを聴く

Facebook

ページトップへ