湘南に恩返しを!ベテラン山田直輝選手が湘南愛、そして湘南ベルマーレが自立し たきっかけを激白!!

山田直輝選手

山田直輝選手の話を聞いて、湘南ベルマーレ、最近、チーム状況が良くなってきた理
由がよく分かった。切っ掛けはルヴァンカップで秋田に負けた後の選手だけでのミー
ティング。山田選手曰く、「選手同士のミーティングは、結構傷の舐めあいみたいにな
りがちだけど、その時は『甘えが多い』『戦術がどうこう相手がどうこうじゃなくて、自分
達だ』といった厳しい言葉が飛び交った。」のだという。「毎年リーグ戦の最後にJ1残
留の時に強さ発揮するのは、その時はひとりひとりが勝つ為だけに戦っているよね。
最初からそう思えばもっと出来るんじゃないって話をして、そこから選手たちが自立しだした。」

湘南は失点も減った。アウェーでも勝ち点3を獲る。戦い方に粘り強さが出て来た。チ
ームの変化は結果として出て来ている。この変化を山田選手は「際をしっかり自分達
で戦えるようになってきた」と独特の表現をしていた。際は試合中のボール際や勝負
の際だけではない。やっぱり普段の生活から練習から、日々どういう過ごし方をしてる
かが最後にピッチの上の際になって出ると。天才少年と言われ、日本代表入りもした
10代から、大ケガを何度も経験して、サッカーの酸いも甘いもかみしめて来たベテラ
ンらしい含蓄のある言葉だ。

そのベテラン山田選手が何度も繰り返していたのが湘南への恩返しという言葉だ。一
番の恩返しはタイトルを獲ることだとも繰り返し言っていた。「最初レンタルで来た時は
、正直、湘南で叩き直してもらって選手として戦えるようになったら必ずもう1回浦和で
チャレンジしたいっていう気持ちだった。浦和に戻って、また大ケガをしてしまって、自
分の思うようにサッカーが出来なくなってたところに、湘南ベルマーレからまた声を掛
けてもらった。2回も僕を助けてくれたというか、そのチームで全力を尽くそうと思って
、その2回目の移籍の時は浦和に戻るっていう気持ちはなくて、完全に湘南の山田直
輝として、今まで頂いた恩を返しに自分の出来ることを100%でやろうと思って移籍し
ました。」

ベテランとなって人間的な深みを感じさせる山田選手の話は、10代から山田選手を
知る者にとっては不思議な感覚を覚える。しかし、5歳の息子さんが七夕の短冊に「
サッカー選手になりたい」と書いたという話をする嬉しそうな顔はパパの顔で、長い月
日の経過を感じてしまう。パパの顔になってお子さんの話をひとしきりした後で、再び
選手の顔に戻って「やっぱりタイトルが獲りたい」と山田選手は言った。チームで誰よ
りも本気でタイトル獲りたいと思っている。その欲が若さの秘密なのではないだろうか
。サッカーに導いてくれたお父さんのように、タイトル獲って、トロフィー掲げるカッコい
いパパ見せて欲しい。まだ老け込む前に、やることは残されている。

日立システムズエンジニアリングサービス LANDMARK SPORTS HEROES
放送局:FMヨコハマ
放送日時:毎週日曜 15時30分~16時00分
出演者:モリタニブンペイ、安藤咲良
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※該当回の聴取期間は終了しました。

みかんに魅せられた大学生、異郷の地で大挑戦「多くの人においしいみかんを食べてほしい!」

暦の上では春になっても、まだまだ「こたつ」が恋しい時期です。こたつに入ると食べたくなるのが、やっぱり「みかん」。

ただ、どんな方がみかんを作っているのか、あまり知らない方も多いと思います。今回は、果物好きが高じてみかん農家になった、北国出身の若い男性のお話です。

赤山大吾さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

昔、東京と沼津の間を結ぶ電車を「湘南電車」と呼んでいた時代がありました。車両のオレンジと緑のカラーは「湘南色」、俗にみかん色とも云われてきました。今はだいぶ本数も減りましたが、東京駅のホームに、「沼津」と行先が表示されると、何となく、潮の香りと柑橘系の爽やかな香りが漂ってくるような気分になります。

その静岡県沼津市・西浦地区は、駿河湾の最も奥まった所にあって、海越しの富士山を望むことが出来る、風光明媚なみかんの産地として知られています。看板品種は、寿という字に太郎と書いて、「寿太郎」。この「寿太郎」を、今シーズン初めて作り上げて、出荷した男性がいます。

赤山大吾さんは、2000年生まれの24歳。赤山さんは、北海道・札幌のご出身で、小さい頃から果物が大好きでした。土地柄、みかんはあまり出回らないため、りんごを2個、まるかじりするのが日課。残すのは、わずかに芯の部分だけでした。

赤山さんは新潟の大学に進学しましたが、コロナ禍のために授業はリモートが中心。学ぶ内容も想像していたものと違って、あまり納得がいきませんでした。悶々とした日々を送る中で、赤山さんはたまたま近所のスーパーで「沼津・西浦みかん 寿太郎」と、ラベルが貼られた袋を手に取ります。

『寿太郎? 沼津ってドコ?』

赤山さんは、そう不思議に思いながら、家に帰って、さっそく皮をむいて、みかんの小さな袋を一つ、口のなかに入れると、いままでにない食感に感激しました。

『甘い! でも、甘いだけじゃない、甘みと酸味のバランスが絶妙だ!』

赤山さんは、「寿太郎」を食べて、食べて、食べまくりました。そのおいしさに満たされるうちに、自分でもみかんを作りたい気持ちが芽生えます。

沼津市西浦地区のみかん山(画像提供:JAふじ伊豆)

赤山さんは、居ても立ってもいられずに、寿太郎を出荷している沼津のJAに、直接電話をかけました。

「あの……、みかん作りに興味があるんです。教えてもらうことは出来ますか?」

2022年2月、赤山さんは大学を休学して、沼津にみかん作りの研修にやって来ました。地元の農家の皆さんも、北海道出身の赤山さんの挑戦に驚いたといいます。

その初顔合わせ、農家の皆さんは赤山さんの手を見るなり、思わず目を見張りました。

『おお、彼は本物だ! これだけみかんが好きなら、きっとやってくれる!』

そう、赤山さんの手は、みかんをいっぱい食べた、あの黄色い手になっていたんです。赤山さんは、西浦地区でもとくにおいしいみかんを作ると定評のある、御年80歳の大ベテランの農家の方に付いて、みかん作りを学び始めました。

「いいか、農家というものは、人に言われてじゃなくて、自分から動かないとやれないぞ」

「みかんは手間をかければかけるほど、ちゃんと応えてくれる。手間を惜しむな」

赤山さんは、師匠がかけてくれる言葉を一つ一つ噛みしめながら、その背中を追いかけていきます。厳しい言葉の後には、夕飯のおかずをおすそ分けしてくれたり、地元の皆さんの人柄の温かさも、故郷を離れた赤山さんには大きな励みになりました。

赤山大吾さん

籍を置いていた大学にも退学届を出して、退路を断った赤山さんは、2年間の修業を経て、2024年1月、晴れて独立を果たします。高齢でみかん作りが難しくなった方のみかん山・およそ1.5ヘクタールを借り受けて、自分の力が試される時がやって来ました。

いざ作り始めてみると、農家はみかんを作っていればいいわけではなく、事務手続きや生産計画作り、害虫や猛暑対策、アルバイトの雇用などを、全部1人でこなします。

それでも去年は概ね天候に恵まれ、周りの皆さんのサポートにも支えられながら、およそ1万キロの「寿太郎」が無事に実って、収穫することが出来ました。その出来栄えに、赤山さんも手ごたえは十分! 早速、地元の方に食べてもらうと、「おいしい!」と、味に太鼓判を押してくれました。

自分で収穫したみかんが出荷されていく様子を見て、赤山さんは胸が高鳴りました。

『自分で作ったみかんが誰かの手に渡っていく。ようやく自分で稼ぐことが出来たんだ!』

でも、赤山さんに収穫の喜びに浸っている暇はありません。まだ、みかんの管理に甘い点があったこと。そして、この冬は、越冬しているカメムシが多いため、今年は天敵への抜かりない対策が求められそうなことなど、しっかり気を引き締めています。

「もっとおいしいと言ってもらいたい! 多くの人においしいみかんを食べてほしい!」

その思いを胸に、赤山さんは2年目のみかん山に登ります。

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