有吉「さすがに誘うのをやめた」30回飲みに誘って“すべて断った後輩芸人”とは?

有吉弘行がパーソナリティをつとめるラジオ生放送番組「有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER(サンドリ)」。3月16日(日)の放送はアシスタントにタイムマシーン3号の山本浩司とアルコ&ピースの酒井健太を迎えてお送りしました。


(左から)有吉弘行、山本浩司、酒井健太



先日、有吉がMCをつとめるバラエティ番組「有吉の壁」(日本テレビ系)の生放送があり、その後に有吉やタイムマシーン3号を含めた出演者、そして、スタッフも交えて打ち上げがおこなわれたそう。有吉は「すごく大規模で、いい打ち上げでした」と振り返る一方で、「また……ちょっと問題がありましたね」と言います。

先日の放送で、有吉は「ウンナン極限ネタバトル!ザ・イロモネア〜笑わせたら100万円〜」(TBS系)に、劇団ひとりさんやタイムマシーン3号、アルコ&ピースとともに「チーム・太田プロ」として挑戦し、見事100万円を獲得しましたが、タイムマシーン3号が収録後に仕事の予定があったこともあり、後輩と一緒に飲みに行けず1人で帰ったことを明かしていました。

それもあって、今回は後輩から二次会に誘われることを密かに期待していたそうですが、「2時間ぐらいかな。(とにかく明るい)安村が司会をしてくれて、みんなでお酒を飲みながらワイワイやって。それで(打ち上げが)終わって、ちょっと粘っていたんですけど……(後輩から)声をかけられることなく1人でタクシーに乗って帰りましたよ」と嘆きます。

これに山本が「“粘った”とおっしゃいましたけど、そそくさというか、いつも通りに帰っていかれましたよ」と反論しますが、「もの寂しげに残ったハイボールの氷を舐めているわけにはいかないだろ? 番組の柱と呼ばれている俺が」と返す有吉に、「それはそうですよね」と酒井も同意します。

すると、山本は「有吉さんはお子さんが生まれたから……酒井もそうだけど(子どもが生まれると)周りと疎遠になっていってしまうじゃないですか。我々も(二次会に)行きたいのは山々だったんです。でも“ちょっとお誘いするのも”ということで……」と声をかけなかった理由を告白。

しかし、有吉は家族に「帰りが朝方になるかも」と伝えていたほど、飲む気満々だったそうで、これには「(帰れないことを)覚悟していたんですね」と驚く酒井。

それでも、山本はあまり納得できておらず「それなら(打ち上げ中に)ちょっと“匂わせ”をしていただけたら、我々的にはうれしかった。野暮ったい話ですけど」と提案するも、有吉は「俺は“匂わせ”をしないタイプだから。やっぱり、そっち(後輩)から『有吉さん! もう一軒行きましょうよ!』って声をかけてきてほしかった」と言います。

すると、この言葉が響いたのか「確かにそうだな……昔はよく(飲みに)誘わせていただいたんですけど、最近は減ってしまったっていうのはありますね」と山本がつぶやくと、「何回か断られたくらいで諦めてほしくないね。俺なんてダーリンハニーの吉川(正洋)を30回くらい誘って、30回くらい断られているからね。それでさすがに誘うのをやめた」と有吉。

この衝撃発言に酒井は爆笑し、山本も「なんでそんなに忙しいんですか(笑)? 吉川さん!」と苦笑いを浮かべていました。

<番組概要>
番組名:有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER
放送日時:毎週日曜 20:00~21:55
放送エリア:TOKYO FMをのぞくJFN全国25局ネット
パーソナリティ:有吉弘行
番組Webサイト:https://audee.jp/program/show/27400
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亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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