しゃべりが止まらないのは漫才師の習性!? ますだおかだ・増田英彦がラジオを語る

12月22日の「おとなりさん」(文化放送)、午前9時台『教えて!全国☆ラジオスター』のコーナーに、ABCラジオ「ますだおかだ増田のラジオハンター!」(毎週木曜昼12時~午後3時)から増田英彦さんが出演した。きっかけは、「ラジオハンター!」内で増田さんが坂口愛美アナウンサー(文化放送)の名を出したことだった。

坂口愛美「(関西出身で、ますだおかだを)見て育っていますよ。だから、昔からよくテレビで見ていた増田さんが、自分の名前をラジオで出してくださったというのがうれしくて。いろんな人から連絡、来たんです。すぐオファーさせていただきました!」

増田英彦「ありがとうございます! なんかの流れで、『全国のラジオ祭り(ラジオのイベント)、どんな感じかな?』と思って募集したとき、文化放送のリスナーさんから浜祭(はままつり)の情報が来て、その話になったのかな。CDがほしいな、と思ってね、高橋優さん絶賛の!(笑)でも浜祭はうちの相方の岡田(圭右)が仕事で行っているわけで、そこにリスナーとして参加するの無理でしょう(笑)。(このあと坂口アナからCDがプレゼントされた)」

山根良顕「『ラジオハンター』とか聴いていても、やっぱり増田さん、しゃべるの止まんないね。なんとなく、がやがやうるさいのは岡田さんのイメージじゃない? でもラジオだと増田さんのほうが、と思うぐらい」

増田「たぶん増田も岡田も間(ま)が怖いんだと思う。漫才師の習性でもあるのかな、『とりあえずどっちか埋めとかな』みたいな。餅つきやね。奈良の有名な餅つきあるやんか」

坂口「速いのですね(笑)」

増田さんは「ラジオハンター!」でともにパーソナリティを務める武田和歌子アナのことを「天才ですよ」と称える。山根に「武田さんが相槌打つぐらいしかないぐらいしゃべっている(笑)」と言われると、「名キャッチャーなんです(投げやすい)」と返した。パーソナリティ歴は長く、ますだおかだのデビュー1年目で、MBSラジオ「MBSヤングタウン」を担当できたという。

増田「1年目から運よく、大阪の『MBSヤングタウン』のメインパーソナリティをさせてもらいました。まだアルバイトしているのに。そのころの並びは、よゐこさん、FUJIWARAさん、つんく♂さんとかもいらっしゃいましたよ。そんな中、一曜日だけ無名の芸人を使って育てよう、という趣旨で選ばれたのが、まだ1年目のますだおかだ。でも放送が始まって1週間で、アルバイトを辞められる出来事があったんですよ」

山根「何があったんですか?」

増田「番組が始まったとき、『リスナーの皆さん、ますだおかだと言っても顔、わからないでしょう? 興味ある方は今週の日曜、難波のアメリカ村の三角公園という場所がある、そこに何時に立っているから見にきてください』とイベントをやった。そうしたらリスナーが50人ぐらい集まってくれて。その翌週に大阪で当時いちばんメジャーだったお笑いコンテスト『ABCお笑い新人グランプリ』の生放送があって、ますだおかだが優勝できたんです」

山根「すごいな!」

増田「ずっと吉本(の芸人)さんがとっていた賞で、松竹芸能初受賞やったんです。忙しくなるから、優勝した翌日に俺も岡田も『アルバイト辞めます』と言いに行って。その翌週『リスナーさん、ますだおかだの顔、見てくれましたか』『よかったらもう1回会いに来てください』と言ったら、2週間前は50人だったのが500人集まってくれた。インターネットもない時代に、ラジオの力でこんなに集まってくれたんだ、と感動した思い出があります」

パーソナリティになる前からラジオを聴いていたという増田さんは、自らハガキを送っていた経験もあるという。

増田「まだダウンタウンさんが若手で、『これから売り出すぞ』『関西で人気になってきている』というとき、ダウンタウンさんのヤングタウンの記念すべき1回目の放送で、自分が送ったネタが読まれているんですよ。それいまだにカセットテープ残していますよ!」

坂口「投稿もされていたんですね!」

増田「ハガキ職人やっていましたから。だから職人さんのネタは大事にしているつもりです」

増田さんは自身の経験も踏まえ、届いたネタをどれだけ念入りに選んでいるかも聴かせてくれた。詳しくはradikoのタイムフリー機能で確認してほしい。

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最年少岩手県議はナゼ実業家になったのか?大竹まことが聞く

お笑い芸人の大竹まことが同世代や全世代の男女に向けてお送りしているラジオ番組『大竹まことゴールデンラジオ』(文化放送・毎週月〜金曜13:00~15:30) 4月4日の放送は、光文社から発売している『関係人口 都市と地方を同時並行で生きる』の著者である、高橋博之氏を招き、話を伺った。

大竹「高橋さんは31歳の時に最年少で岩手県議会議員に当選なさいました」

壇蜜「すごいですよ、これ」

大竹「でもその前は、1974年に岩手県花巻市で生まれた高橋さんは18歳で上京し、失敗、挫折、苦悩、葛藤、虚無ばかりの暗黒時代のような20代を送ったと資料にあります」

高橋「大学2年を3回やったりして卒業はしたんですけど、ことごとくやろうとすることがうまくいかず悶々としていた20代ですね」

大竹「そののち、憧れの新聞社の入社試験を100回以上受け続けましたが全滅」

高橋「全部落ちた、はい」

大竹「そして、政治家の秘書とかいろんなことをなさって、選挙に出ようと毎朝2時間、街頭に立って演説を続け、31歳のとき岩手県議会議員に当時最年少で初当選。すごいですね」

壇蜜「急なジョブチェンですね」

大竹「その後、初当選をなさって2期務めた後、東日本大震災のあった岩手県知事に挑戦します。被災地となった三陸沿岸部300キロを徒歩で遊説すると言う前代未聞の選挙戦を戦い抜き、惨敗なさいました」

高橋(笑)

大竹「そのあちこちで遊説なさっている時に高橋さんは、これからは農山漁村にこそ希望の種を蒔いて行かなければならないというふうに訴えていらした」

壇蜜「このままじゃダメだって思いました?」

高橋「僕は10年ぐらい東京にいましたけど、豊かな消費社会の根っこを支えているのが田舎の農村漁村なんですよね。食料を供給してるし、エネルギーも供給してるし、なんなら大企業で働く人材だって供給する。その我々の源が、大本が、これだけ弱っている。そこが東日本大震災で被災したんですよね。三陸が大変だから、可哀想だから支援するじゃなくて、自分たちの命綱なんだから自分ごととして支えていかないといけないって思いました」

壇蜜「なるほど。そこで立ち上げたのが、どの土地にも等しく自然の恵みをもたらす雨や風、太陽のようにありたいという、株式会社雨風太陽」

高橋「そうですね。もともとはNPOだったんですけど途中から株式会社化して雨風太陽になったんです」

大竹「震災時には、いろいろお感じになった。あっちの方だとフカヒレの材料とかホタテとか、いろんなものが東京とつながってるんですけど、それが工場から何から全滅して」

壇蜜「作れなくなっちゃった」

大竹「なんとかしなきゃいけないってお感じになった」

高橋「三陸の皆さんがもう1回取り戻そうとしている日常と、都市部で生きてる人間が仕事終わったあと寿司食いながら酒飲んでる生活があるわけじゃないですか。それは繋がっているので、その生活を守るためにも命綱の先にいる生産者の世界を自分のこととしてやらないとフェアじゃないと思ったんですね」

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