新浜レオン「甲子園、プロ野球を目指してガチでやっていました」“野球一筋”で励んだ学生時代を振り返る
2025.03.20 up
アーティストの「こっちのけんと」がパーソナリティをつとめるTOKYO FM のラジオ番組「G-SHOCK presents THE MOMENT」(毎週金曜17:00~17:25)。さまざまなゲストをお迎えし、生まれてからこれまでの時間のなかで、人の心に刻まれている「人生が変わった瞬間」=“MOMENT(モーメント) を探ります。
2月28日(金)、3月7日(金)の放送では、演歌歌手の新浜レオン(にいはま・レオン)さんが出演。この記事では2月28日(金)の放送の模様をお届けします。幼少期のあだ名に関するエピソードなどについて語ってくれました。
新浜レオンさん、こっちのけんと
1996年生まれ、千葉県出身の新浜さん。2019年にシングル「離さない 離さない」でデビュー。「第61回日本レコード大賞」新人賞を受賞し、翌年は「第34回 日本ゴールドディスク大賞」ベスト・演歌/歌謡曲・ニューアーティストに輝きます。他にも、サンリオとコラボキャラクターを制作するなど幅広く活動。2024年は、木梨憲武さんがプロデュース、所ジョージさんが作詞作曲を手がけた楽曲「全てあげよう」が大ヒット。同年の「第75回NHK紅白歌合戦」にも出演しました。
VIDEO
◆あだ名が“梨男”になった理由
こっちのけんと:この番組では、ゲストの方が生まれてから、これまでの時間のなかで、心に刻まれている人生が変わった瞬間=“MOMENT(モーメント)”を伺っていきます。新浜レオンさんの1つ目のモーメントは?
新浜:「野球を始めて、あだ名が『変更』になる」です。
こっちのけんと:これは小学生ぐらいのとき?
新浜:実は小学2年生~高校3年生まで野球一筋でやっていたんです。甲子園、プロ野球を目指してガチでやっていました。
こっちのけんと:すごい!
新浜:小学校の卒業文集とかにも「将来はプロ野球選手になる」って書いていました。そのはじまりが小2だったんですよ。
こっちのけんと:あだ名が変わるということは、もともとは何だったんですか?
新浜:「やせこけぽっち」というあだ名でした(笑)。
こっちのけんと:語呂はいいですね(笑)。
新浜:というのも、野球を始めるまでは本当に細くて、ご飯も食べない少年だったんです。
こっちのけんと:野球を始めてご飯を食べるようになって、練習で筋肉がつき、体が大きくなってから、あだ名はどうなるんですか?
新浜:ここから「梨男(なしおとこ)」になります。
こっちのけんと:なんでそうなるんですか(笑)?
新浜:僕の故郷が千葉県白井市なんですけど、梨が名産なんですよ。千葉県のなかでも梨の生産量が1位です。そして、母親の実家が梨農家なんです!
こっちのけんと:そう聞くと、たしかに“梨男”の素質がありますね!
新浜:本当に、梨を食べて育ったような感じなんですよ。
こっちのけんと:(生まれたときからなら)「野球を始めてあだ名が変更になる」、じゃないわ(笑)。
新浜:あれ、おかしいな(笑)。
番組では他にも、“膝スライディング”のパフォーマンスが生まれた転機などについて語る場面もありました。
<番組概要>
番組名:G-SHOCK presents THE MOMENT
放送日時:毎週金曜 17:00~17:25
パーソナリティ:こっちのけんと
『日本中が苦しんでいる時に軍人の妻が泣くわけにいかない』湯川れい子が忘れられない母の言葉
2025.03.21 up
ニッポン放送でお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。
この番組は、日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。
3月20日(木)は、音楽評論・作詞家の湯川れい子が登場。東京都の出身。1959年ジャズ専門誌「スイングジャーナル」への投稿が評判を呼んでジャズ評論家としてデビュー。
湯川が生まれたのは、1936年、第二次世界大戦の前。家族も戦争の影響を受けることになる。戦後、母と交わした会話が今も忘れられないと言う。
湯川:戦後、母に思いっきり頬を叩かれたことがあるんですが、母は、私が高校だけは何とか高校だけは出す。出してあげるけど、高校卒業したら「結婚してね、結婚してね」って言われて。結婚が女の幸せですからね。そんな時に、高校卒業したら、どうやって母を一生食べさせていけるようになるんだろうと思って。母が持ってくるようなお見合いで、誰かと結婚するのは嫌だと。なんかこう、母は毅然とした誇りを持っている人だったし。母は自分は軍人の妻だから絶対何があったって泣ける立場じゃなかったと。私がよく「夫に死なれ、長男に戦死され、次男も特攻隊のまま行方不明になって。よくお母様、涙もこぼさないでいらっしゃいましたね」って言ったら、「だって日本中が苦しんでいる時に軍人の妻が泣くわけにいかないでしょう」と言われたんですね。それで、「でも私は泣き叫ぶ女になります」と言ったら、母は「私だって泣けるもんだったら泣きたかったわよ」って、初めて涙を大粒の涙が出てきた。それだけ母は頑張ってたんだなってよくわかりますね。
そして、湯川は女優としての道を歩む。その際、家族とある“誓い”を交わしたという。
湯川:母の妹とか、そのご主人とか、おじとか、甥とか、全部呼び集めて、私が女優になると。(女優の)試験を受けて、合格してしまったんだけど、どうしてもんだろうっていう。一応、家族会議を開いてくれまして、兄や姉が、「本当に生涯、その仕事をやりたいんだったら」ということで、そこで誓わされて。許してもらったんですね。
最後に、次の世代への提言を伺った。
湯川:私は、評論家じゃないんです。私は、推し。これまで推し活をやってきたんです。人生を振り返ってみたら、推し活なんです。だから、自分の「大好き」を見つけて欲しい。大好きだったら、諦めないから。辞めないから。だから、あなたの「大好き」を見つけてください。