佐藤竹善「CIAかい!」KAN「CAだったりして」謎の応酬をタネ明かし

土曜17:00~に引っ越してます! ©STVラジオ

シンガーソングライターで、偉大なメロディメーカー・KANが、音楽シーンをウィットたっぷりに語り通すSTVラジオ『KANのロックボンソワ』。2曲目に、Sing Like Talkingの「無名の王 -A Wonderer's Story-」をお掛けしましたが、そのSing Like Talkingの佐藤竹善とKANとの、ある「事件」について、そのワケをトークします。リスナーからのメールをきっかけに…。

KAN:(リスナーのメール)佐藤竹善さんが青森空港で搭乗に手間取り、名前がアナウンスされたそうです。そうしたら、そこにいるはずのないKANさんから「早く飛行機に乗って下さい」というメールが届いたとか。竹善さんは「CIAかっ?」というツッコミで終わっていましたが、いったいどういうことなのか不思議に思った次第です。

KAN:はい、ありました。10月10日ですけど、佐藤竹善さんは前日に青森でのライブがあって、東京で乗り継いで福岡に行く日だったようなんです。で、なぜ僕がそれを知ったかというと、僕の奥さんが前日に青森で仕事をしていて、青森空港から東京行きの(佐藤竹善と)同じ飛行機に乗ったみたいで、空港で「東京行き○○便にご搭乗の佐藤竹善さま、佐藤竹善さま」とって呼び出しがあったらしいです。

KAN:で、すぐ僕に奥さんから「佐藤竹善さん、呼び出されてるよ」ってメールが来たから、すぐに竹善さんにショートメールで「早く飛行機に乗って下さい」って送ったら、「え、なんで?」って返ってきて。(佐藤竹善は)荷物を預けるのに手間取っている時に、もう搭乗時間が迫って、呼び出されたいうことだったらしんですね。

KAN:このことを竹善さんがFaceBookに載せてました。「手間取っていたらアナウンスされ、そこになぜか、いるはずのないKANちゃんからメールが。どういうこと? CIAかい!」って書いてあったので、僕も返信で「CAだったりして」…軽く返しておきました。

M2. 無名の王 -A Wonderer's Story- / Sing Like Talking < BEFRIEND < 2013
 
KANといえば2006年に実際、桜井和寿とともに「パイロットとスチュワーデス」というユニット組み、演奏時にはスチュワーデス、今で言うCA(キャビンアテンダント=客室乗務員)に扮していました。…実は本当に、その便にCAに扮して乗務していたのかも?!。

STVラジオ『KANのロックボンソワ』(毎週土曜 17:00~18:00) ★10月より、土曜17:00~にOA時間が変わっています。

ラジコプレミアムに登録して
全国のラジオを時間制限なし
で聴く!

KANのロックボンソワ
放送局:STVラジオ
放送日時:毎週土曜 17時00分~18時00分
出演者:KAN
番組ホームページ

土曜の夕方、偉大なるメロディーメーカー・KANが音楽を語り尽くす1時間。たまに音楽には直接カンケーないトークも…。それが『KANのロックボンソワ』です。

※該当回の聴取期間は終了しました。

昭和46年は文化が変わる「昭和後期の幕開け」だった?

大竹まことがパーソナリティを務める「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送・月曜日~金曜日13時~15時30分)、4月30日の放送に編集者・プロデューサーの北村明広が出演。発売中の著書『俺たちの昭和後期』に関して語った。

大竹まこと「今回の御本は『俺たちの昭和後期』。水谷さんはこの時代にピッタリだと」

水谷加奈「北村さんが昭和40年生まれで私が昭和42年生まれなので、ほぼ同世代。もう、そのとおりだよ、と思って本を読ませていただきました」

北村明広「ありがとうございます!」

大竹「(昭和は)元気な時代だったわけですよね。いまの人たちに勇気を持ってもらいたい、そういった意味合いも含んでいますか?」

北村「そうですね。分断社会も進んでいますし、元気もないし。僕が小さなころ、大人から受け取ったのは、とてもよろしいものが多いので、それを伝承しないのはもったいないな、という気持ちで書きました」

大竹「(本では)昭和を3つに分けている」

北村「1つ目は元年から敗戦(昭和20年8月15日)まで。2つ目はそこから昭和45年、万博の年までですね。大きな事件として三島由紀夫さんの割腹もあった。日本の景色がなんとなく変わったかな、と想定して。3つ目、46年からが昭和後期、としました」

大竹「昭和後期の、回顧してみれば元気のあった時代となりますかね」

北村「46年ってちょうど、NHK(総合)がすべてカラー放送に変えた年なんです」

大竹「確かオリンピックをカラーで観たい、というのが流行って」

北村「うちが電気屋なんですよ。オリンピックが決まったときに親父はたぶん、起業を考えて。売って売って売りまくってやる、ということで。儲かったとは思うんですけど、長屋でした。電気屋、酒屋、大工さん、写真家……昭和ですね。大きなイベントがあるごとにテレビの需要は増えていくので、万博時もカラーテレビがものすごく売れたらしいんですね」

大竹「野球中継も最初のころはカラーじゃなかった。野球もすごい人気になった。巨人が負けると親父の機嫌がめちゃくちゃ悪くなって。イヤな時代だね(笑)」

水谷「でもそのころ、マクドナルドが来て」

北村「これも46年なんです。昭和後期の象徴的なことだな、って。三越の1階にマクドナルドがオープンした」

大竹「友達の、田舎に住んでいるお父さんがマックを食べたいと言って、銀座の三越へ。息子が一緒に買って、帰ろうとしたらお父さんが動かない。なぜかと聞いたら『立って食べたい』と。立って、フライドポテトなんかをかじりたかったんだろうね」

北村「行儀の悪いとされていたことを日本が受け入れ始めた、という年としても46年はおもしろいな、と。41年のビートルズの公演のときは『欧米の文化を武道館でやるなんて、なんたることか』という報道がありましたけど、たった5年後にはなくなる。立って食べていいことになっている。これも昭和後期の幕開けにふさわしいかな、と。カップヌードル発売がやはり46年なんですよ」

大竹「その前がチキンラーメン(昭和33年発売)だよね。立って食べる、カップヌードルをフォークで食べる、そういうことが日本の日常になってきたのかね」

北村「(日清の)創業者で開発者の安藤百福さん、アメリカへ視察に行ったら、チキンラーメンをカップに入れてフォークで食べていた、と。それが着想だったそうで。これもアメリカ文化の輸入なんですね」

Facebook

ページトップへ