宇多丸、『燃ゆる女の肖像』を語る!【映画評書き起こし】

ライムスター宇多丸がお送りする、カルチャーキュレーション番組、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」。月~金曜18時より3時間の生放送。

『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。
今週評論した映画は、『燃ゆる女の肖像』(2020年12月4日公開)です。

 

宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週扱うのは、12月4日から公開されているこの作品、『燃ゆる女の肖像』。

(曲が流れる)

18世紀フランスを舞台に、望まぬ結婚を控える貴族の娘エロイーズと、彼女の肖像画を描く女性画家マリアンヌの、鮮烈な恋を描いたラブストーリー。主な出演は、エロイーズ役に、『午後8時の訪問者』などのアデル・エネル。マリアンヌ役に、『英雄は嘘がお好き』などのノエミ・メルランさん。監督・脚本を手掛けたのは『水の中のつぼみ』などのセリーヌ・シアマさん、ということございます。去年の第72回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィアパルム賞を受賞しました。

ということで、この『燃ゆる女の肖像』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「非常に多い」。公開館数というか、いわゆるミニシアター的な公開のされ方ではありますが、前評判の高さで足を運んだ方が多かった、という感じでしょうか。

そして賛否の比率は、褒める意見が8割。女性、そして今回初メール、という方の投稿も多かったです。褒める意見としては「今年ナンバーワン! ストーリー、撮影、舞台、全てが美しい」「ラストシーンで大号泣」「ミステリーであり、恋愛映画であり、女性たちの連帯を描いたシスターフッド作品でもある」とかですね。「宇多丸さんが評論でよく言う、“見る/見られる”の描き方が上手い」などがございました。

一方、否定的な意見としては、「恋愛感情の高まりが唐突に思えた」とかですね……ちょっとあと、ひとつ面白い視点の批判的意見もあって。これはちょっと後ほど、メールでご紹介しますね。

■「『今、自分はものすごいものを見ている!』」byリスナー
では、代表的な感想をご紹介しましょう。ラジオネーム「ブルーレイを待ち続ける女の肖像」さん。「初めての投稿です」。ありがとうございます。

「『燃ゆる女の肖像』、最高でした。脚本、音楽、映像の美しさ、よいところばかりでした。脚本に関しては、『女と仕事』『女と結婚』『女と中絶』と、登場人物がそれぞれに経験している女の人生の辛いところをしっかりと捉え、それらに女同士で連帯したり、寄り添ったりしてなんとかやっていこうとするところが最高。エロイーズとマリアンヌの関係もとても引き付けられるものでしたが、使用人の女の子(ソフィ)もこの映画においてかなり大きい存在だったと思います。

特に彼女の中絶にまつわるシーンでは、家父長制の中にいる奥さまが外出しているうちに館に残された3人で彼女の中絶に協力したり、見守ったりするところに連帯を感じました。3人で過ごした5日間のことを、彼女たちはきっとずっと覚えていると思います。3人で本気のカード遊びをしたり、オルフェウスについて語り合うシーンも楽しそうで印象的でした」と。で、ですね、今日はこれ、全体に、ラストシーンの具体的な描写に関しては、ちょっと伏せようと思いますので。ブルーレイを待ち続ける女の肖像さんね、すごく詳細に感想を書いていただいてありがとうございます。その部分はちょっと省略させていただきます。

あとですね、たとえばラジオネーム「沼サーモン」さんも、「初めてメールを差し上げます。いつも聞いているだけリスナーだったのですが、今週のムービーウォッチメンが『燃ゆる女の肖像』と知り、いても立ってもいられず感想メールをお送りします。それほど自分にとってこの映画は生涯ベストに入る傑作となりました」ということで。「素晴らしいと感じた点は数えきれません。全てのシーン、どこを切り取っても1枚の絵画かと思えるほどの画面構成、極端に男性の登場を抑えた人物構成。中盤の臨床シーンなどを挙げるとキリがなく、乱文甚だしくなってしまうので、ここは自分が一番響いたラストシーンの感想のみにとどめたいと思います」ということで(笑)……ラストシーンの描写が続くので、ごめんなさい、ここはちょっと省略して読ませていただきますが。

「芸術の素晴らしさを本当に理解できた、自分に入ってきたと感じられることの嬉しさ。その苦しさ。むき出しさ。その瞬間があのシーンに全部詰まっていると感じました」。これ、面白いですよね。その、物語上で起こったことの感情だけではなく、それを通して「この芸術が完全に自分には理解できた」という、たしかにそういう喜びの表情とも取れる感じですよね。

「こういう瞬間があるからこそ、芸術があるのだという真理すらも感じてしまい、そしてそのシーンがひとつの絵画的瞬間になっている、という構成に、『今、自分はものすごいものを見ている!』という、芸術を目の前にした至高の瞬間をエロイーズと同時に体験することができました。どこまでも美しいです」というような、だいぶ抜粋してご紹介しましたが、こんなメールも来ています。

一方、ダメだったという方もご紹介しましょう。ラジオネーム「駒込ノリ」さん。「いまいちでした。画家とモデルの見る/見られる関係がオルフェウスの神話とうまく結びつけられていたり、撮影の美しさとか素晴らしいと思うのですが、画家を主人公にしたこの映画を説得力なきものにしているのは、恐縮ですがプロの目から見て、劇中で使われた絵が、あまりに下手なところです。監督がインスタで探したとかいう──ヘレーネ・デルメールさん、かな?──という、その絵がひどすぎる。

18世紀の絵の再現はもちろんできておらず、古典技法にも精通しているとか言ってるようですが、現代の具象画家としても下手。デッサンからして下手でした。グルメ映画でまずそうな料理が出てきたら成り立たないのと同じで、一番大切な要素である絵がいまいちで、最後まで乗れませんでした」という。これは「ああ、そ、そうなんだ……(汗)」みたいな感じで。ちょっと、たしかに、こういうプロとしての視点もあるのかもしれませんね。

■「視線」をめぐるストーリーテリングを純化させ、ほとんど完璧なほどロジカルに、しかし切実に組み上げられた1本
はい。ということで『燃ゆる女の肖像』、私も、『文春エンタ!』の評のためにちょっと一足お先に、かなり早めに見させていただいた&今回もBunkamura ル・シネマ、久しぶりに行きましたけどね。トータルで3回は見ておりますかね。

ということで、先ほどから言っている『週刊文春エンタ!』、年末の恒例のですね、「ガチンコシネマチャート」という企画で、10本の新作映画を5点満点で星取り評価する。そして80字以内で寸評する、というやつで。本年度、僕が唯一、満点評価した1本であります。

で、ですね、僕の寸評。80字にまとめてますので。もうこれを聞けばだいたい終わりということで(笑)、読みます……「『見る/見られる』視線の関係性を周到に繊細に交錯させることで、人が『思い/思われる』ということの本質を浮き彫りにしてみせる、まさしく映画的!な作劇が素晴らしい」というものなんですが。本当にね、僕は、まさしくこの通りの映画だ、という風に思っているわけで。

誰が、誰を見ているのか。その見られてる誰かは、誰を、あるいは何を見ているのか。あるいは、誰が何を「見ていない」のか、っていう、そういう「見る/見られる」、その視線の交わりやすれ違いを通じて、キャラクター同士の関係性やら何やらを浮かび上がらせる、っていうのはですね ……そもそもその、映画というのは、観客がそのスクリーンという、言わば「仮の目」ですね、スクリーンっていう仮の目を通して、作品内の諸々を「見る」メディアですね。

「見る」アートであり、エンターテイメント。「見る」という、その映画という形式らしいというか、映画ならではの語り口なんですね。やっぱり目線を交わして、この人がこれを見ている、それに対して何を見ている、みたいなのは、非常に映画的な語り口と言えると思うのですが。で、本作、この『燃ゆる女の肖像』はですね、そうしたまさしく映画ならではの、映画的な、その視線をめぐるストーリーテリングというのをですね、ひたすらソリッドに純化させ、突き詰めていって、結果その、人が人を思うこと、思われることというのの、剥き出しの本質のようなものをくっきりと浮かび上がらせ、描き出してみせる、という。ほとんど完璧と言っていいほどロジカルに、しかし切実に組み上げられた語り口を持つ1本だな、という風に私は思っています。

しかもですね、これは『文春エンタ』の寸評に入りきらなかった部分なんですけど、その非常に純化された視線、つまり思いのその外側には、決してその視線を主人公たちと交えることのない、というかそもそもあんまり画面に登場しないので、こちら側からも見るっていうことがあんまりない、そういう「世界」の存在……その「世界」っていうのはつまり、この場合は男性中心の、つまり女性は下位、もしくは周縁に追いやられている社会のあり方というものまで、逆説的に、文字通り浮き彫りにしてみせるという、そういう語り口でもある。最終的にはね。

つまりそういう、抽象性、象徴性が非常に高い、ミニマルでソリッドにそぎ落とされた視線、思いの物語、非常に超純粋なラブストーリー、っていうのと同時にですね、その裏側には、一応18世紀フランスを舞台としつつも、現実の「この社会」と地続きというか。この現実の社会を射程に入れた、非常に鋭いメッセージ性も実は全編にはらんでいる、という。いろんな意味で完全体っていうか、そんな一作と言っていいぐらいだと思っています。脚本・監督、セリーヌ・シアマさん。

■男の「見る」視線と女性の「見る」視線は等価でない
日本での公開作がね、デビュー作の2007年の『水の中のつぼみ』というやつと、あとは脚本で参加したストップモーションアニメ、これ、傑作でしたね、『ぼくの名前はズッキーニ』という2016年の作品ぐらいしかなくて。僕も、ちょっと本当にすいません、ちょっと準備が間に合わずというか、準備が足りておらず、今のところその2本しか見られていない状態で、本当に不勉強で申し訳ないんですが。

その『水の中のつぼみ』にも出ていた、今回のそのエロイーズ役……要はその肖像画を描かれる、裕福な家の娘さんを演じているアデル・エネルさんというのは、実はこのセリーヌ・シアマさんの元パートナー、っていうね。ずっと同居されていて、で、パートナーシップをこの映画の製作直前に解消されたっていう。まあそんな話を聞いて見ると、本作もすごく、じゃあ私的な感情も入った作品なのかな、なんていう風にも思っちゃいますけども、まあそれはそれとして、本作、その『燃ゆる女の肖像』。

たしかに女性同士の恋愛、レズビアンの恋愛が描かれてはいますけど、それは、単にその作り手のセクシュアリティがそうだからというのではなくて……仮にね、これ想像してみるとすごく分かりやすいんですけど、これ、異性愛として描くとですね、やっぱり現実世界、現実社会の不均衡、差別的な構造という、要は政治性がこれ、どうしても入っちゃうんですね。男が相手だと、やっぱりそれは。

というか、少なくともセリーヌ・シアマさんはそう思っているわけです。で、さっき言った、極度に純化された、純粋にその「見る/見られる」関係、純粋に「思い/思われる」ラブストーリーが成り立たなくなってしまう。男の「見る」視線というのが女性の「見る」視線と等価でない、という現実がある以上、政治性をはらんでしまう。つまり、さっき言ったようなですね、「見る」アート、エンターテインメントとしての映画、その視線が、長らくその男性的な原理に、無自覚、無批判に独占されてきた歴史というのが正直、あるわけです。たとえば女の人、ラブシーンとかセックスシーンを描くっていう時、やっぱりその男性の目線……女性同士のラブシーンであっても、やっぱり男性の目線である、というようなところが支配してきた歴史があって。

そこに改めて疑義を突きつけるような、そんな言わば革命的な語り口っていうのが、そのセリーヌ・シアマさんの作品、僕が見た中だと唯一の実写作品『水の中のつぼみ』もやっぱり、そういう作品でもありました……そういう目線というか、その意識がある作品でしたし、特に今回の『燃ゆる女の肖像』は、そこを本当に究極的に突き詰めた、研ぎすました1本、という言い方ができるかなという風に思っています。

■序盤で描かれるのは「見てない」男性たち、「籠の鳥」のエロイーズの母、自死?した姉……
で、まず冒頭。時制的にはお話の中で一番先にあたるところ。主人公の、画家である……ただ画家と言っても、社会的には、おそらくは高名な画家である父親の陰に隠れた存在としてしか扱われていないっぽい、主人公のマリアンヌ。これを演じるノエミ・メルランさん。ちょっと僕、エマ・ワトソンとかとも通じる、凛とした、知的な存在感が非常に素敵だな、と思いましたけど。

とにかくその彼女が……絵画教室ですね。スケッチする女性の学生たちがいる。その女性たちが、モデルとなるその彼女を「見る」、目ですね。その真剣な「見る」目と、それを自分なりに脳裏に焼き付けてから描く、スケッチする、という手が見える……早くも本作の主題が提示されるわけですけども。で、その教室にあった、謎めいた1枚の絵。なんか野原の中にポツンとむこうを向いて立っている、ドレスを着ている女性の裾に、火がついている、という謎めいた絵がある。

で、その絵が生まれるに至るその記憶というのを、マリアンヌの回想で、ふっとこうやって(回想して)いく……っていうのが本編の始まりなんですが。で、さっき言ったように、そのエロイーズさん。お金持ちの娘さんの、お見合い写真ならぬ、お見合い肖像画を描くために船で孤島に向かっている、というところから始まるんだけど。ここも非常に、まずは象徴的。まずその男性の漕ぎ手たちは、全員背中を向けていて、顔も見えないんですね。で、船頭はこっちを向いてるんだけど、やっぱり「見て」はいない。視線が別に交わるような関係ではない。

で、島に入ってからは、ほぼ女性しか映らないんですね。この映画はね。なので、この映画における男たちの、言ってみればその「見てなさ」「見えなさ」っていうか、その描写というのが、要は大変よそよそしいというか、完全に男性っていうのは「他者」である、というような描き方が、冒頭からあるわけです。で、とにかく見合い用の絵……見合い用の絵と言っても、それはあくまで先方の男性、間違いなく富と権力を相応に持っている男性側のためのもので、当のモデルとなる女性には選択権はない、ということなんですね。

で、そのヴァレリア・ゴリノの演じるそのエロイーズのお母さんが、自分の肖像画を指して。「私が来るより先に、この館には自分の肖像画が届いていて、自分を出迎えたんだ」っていうことを言う。つまりこれは、その自分の嫁入り時のエピソードですけど、要するに「最初から籠の鳥であることが決められた存在」としてのその良家の女性、っていうことを、このエピソードは語っているわけですよね。で、彼女はそれを受け入れて生きてきた。

だからこそ、序盤はまだ姿すら見せていない、話にしか登場しないそのエロイーズは、肖像画を描かれること、つまり、「見られる」ことさえ拒絶してきたし、そのお姉さんはどうやら自殺した、というエピソードが語られる。で、ですね、ここが非常に本作のスリリングな構造のひとつ、元となっていて。要するにマリアンヌは、肖像画を描くために、エロイーズをですね、「散歩の相手だ」って嘘をついて……エロイーズを、特に前半ではその絵を描きに来たという目的を隠すために、チラリチラリと盗み見ては、その景色を覚えて、描く。

つまり、より強く脳裏に焼き付けながら描く、という、そういう描き方をしていて。そのプロセスの中で、彼女にだんだん強く惹かれていくようになるという。

■中盤。マリアンヌが一方的に「見ている」だけでなく、エロイーズからもしっかり「見返されていた」ことが分かる
たとえば最初に(散歩に)行くシーン……要するに彼女、エロイーズが、最初に登場するシーン。最初、姿は見えないわけですね。最初は、その前に描かれた肖像画も、顔が消されていて見えない。非常にミステリアス。で、絵に描かれたドレスがフッと来るから、「あっ、本人かな?」と思ったら違った。ドレスだけを持ち歩いていた。

で、「散歩に出ます」ってなるけど、顔がまだ見えない状態で、青いローブを被っていて。もう何も見えない状態で、背中だけが見える。そうすると、途中でふっと金髪が、そこからまろび出てですね。「あっ、本人だ。本物だ!」っていう感じがする。で、崖の方にワーッと行って。「あっ、ちょっと待って、待って! お姉さんみたいなことをしちゃうの?」って思ったら、パッとやおら振り向かれ……要するに、後ろからこっちが一方的に見ていると思ったら、バッと振り向かれ、見られて、ドキッ!みたいな。

で、そこからですね、並んだ2人がですね、並んで海の方を見てるんですけど、このマリアンヌ側が、チラチラと右側にいるエロイーズ側を見る。見ると……最初は(こっちを)見ていない。もう1回見ると、見てる!みたいな。こうやって、見ていないって思ったら、見ている!みたいなその、「見る/見られる」によるその(両者の心理的)距離の、絶妙なドキドキ詰め合い、みたいなもの。この作りも非常に見事だったりするわけですが。

とにかく、マリアンヌは(エロイーズに)惹かれていく。で、中盤。そのマリアンヌが、要するに自分は絵を描くために一方的に見てるんだという風に思っていたんですが、実は、エロイーズからもしっかり見返されていた、ということが途中で判明するわけですね。これ、メールで書いていただいてる方も多かった。私、ちょいちょい言う「見る/見られる」関係の逆転、っていうのがですね、先ほど言ったようなその映画の構造もあって、映画における最もスリリングな瞬間……一方的に見ているつもりだったけど、実は向こうからも見返されていた、という、「見る/見られる」関係の逆転というのがスリリングな瞬間だ、ということはいつも言ってることですけど。

本作においてはつまりそれは……お互いに見てるし、見られてるっていう、これは要は、「両思い」っていうことですよね。(特に本作においては)「見る」っていうのは「思う」ということでもある、という。だからこそエロイーズは、自らマリアンヌの視線にさらされること、すなわち、絵を描かれること、というのを望むわけですけど。好かれたいから。「好き」っていう風に……お互い見て、見られたいから。絵を描かれるっていうことは、「見られて、見る」ことだから、なんだけど。

■女性たちだけのユートピア世界が現出したような時間が流れる
ところが、それは同時に、肖像画の完成が進むということはつまり……しかも、その肖像画ってのは、もう恋もしてるし、よりお互いを理解し合ってるから、前に描かれた肖像画よりも、より素敵に描かれるであろう肖像画の完成、それはすなわち、2人の別れであり、そして望まぬ人生の中にとらわれることをエロイーズにとっては意味する。そしてマリアンヌからすれば、自らのその目線で……つまり、その思いを注いだまさにその成果たる作品によって、彼女を閉じ込めることになってしまう、という、こういうパラドックスがあるわけですね。これが非常にスリリング。

面白いのはですね、そのマリアンヌとエロイーズの、その目線が一致する……中盤でね、お互いに見てたんだねと。お互い見てた、お互い好きだったんだね、っていう目線が、平行に一致するその中盤以降ですね、そのメイドのソフィ、これを演じるルアナ・バイラミさんという方、非常に素朴そうな瞳がまたまたハマっているわけですけども、メイドのソフィも入れたこの3人。それぞれ身分の違う、立場も違う、抱えている問題も違う3人の女性の立ち位置が、非常にフラットに、カジュアルなものになっていく。

ひとつの画面の中に3人が収まったり、なんなら3つ平行に並んでいたりすることが増えていく。終盤に向けての非常に超重要な伏線ともなっている、ギリシャ神話オルフェウスとエウリュディケのエピソード。これについての議論であるとか。あるいは、その「燃ゆる女」という絵の直接のモチーフとなった、決定的な瞬間が立ち現れる、島の女たちの、あの夜の謎の集会ね。

全体の中でここだけ、オリジナル曲が輪唱的に歌われて、非常に呪術的に盛り上がっていく。こんな呪術的に盛り上がって、火でぼーっとなっていたら、これは気持ちにも火がつきますよ!っていう感じのところであったりとか。そしてやはりですね、途中で、徹底した男性の不在っていうのがよりその不条理さを際立たせるような、そのメイドのソフィの妊娠・中絶をめぐるエピソード。ここ、その中絶と出産、つまり赤ん坊とが文字通り並べて描かれるというこの構図の、なんていうかな、鋭さというか、強烈さというか。ここもすごいあたりでしたね。

そんな感じで、女性たちだけの平等な世界が、いっとき現出したかのような……非常に、もちろん中絶とか大変なこともあるんだけど、そこだけは何か、ユートピアめいたものが現出したようにも感じられる時間。その中で、マリアンヌとエロイーズの恋も、ノンブレーキで加速していく。ただし、性描写みたいなもの、性愛描写は、非常に控えめというか、性愛描写そのものをもって消費されないバランスに、非常に気をつけて描かれてるなという風に思いました。要するに、「あそこ、エロいよね」みたいな視点に消費されないように描かれている、と思いました。

■この映画がすごいのは、ふたりの関係が終わったあとのエピソード。「見る/見られる」演出の真髄。
で、ですね、ついに絵も完成してしまい、その楽園のような時間に、終わりが訪れる。エロイーズのお母さんも帰宅するよ、なんていう日がやってくる。ここでですね、非常にやっぱりね、自分でもびっくりしちゃうのは、絵を受け取りにやってきた男の人、その船で持って帰る人が、家の中に、ある日階段を下りていったらいつもの食卓にいるだけで、ドキッとしてしまう異物感がある。この、楽園がもう失われた感が半端ない、って感じがありますよね。

で、その絵が完成した直後からマリアンヌがちょいちょい見る、あるビジョンが、さっき言ったオルフェウスのエピソード、その解釈と鮮やかに重なる形で……重なったその瞬間に、ストンと全て、その2人の関係というものが終わる。ここのストンと終わる感じも、うわっ!っていう感じで鮮やかでしたしね。で、ですね、ここで終わっても十分にすごい映画だと思うんだけど、この映画がすごいのは、その先、つまり、2人が最後にお互いを見た、その瞬間から後のエピソード。ここに「見る/見られる」演出の真髄、みたいなものが大展開される。

先ほど言った、絵画教室のシーンに戻って、現在のマリアンヌ……まあ生徒たちから見て寂しそうには描かれてるけど、もう大丈夫、つまり、彼女的には全てが終わった後の彼女、という。その回想で、まず最初にエロイーズ、彼女と初めて再会したのは……っていうことで。要するに、展覧会ですね。多くの人が行き交っている。大半は裕福そうな男性が行き交っている会場内を歩むマリアンヌ。しかしマリアンヌ……つまり観客とこの男性たちは、目が合わない。視線が交わらない。

つまり、男性優位的なこの社会というのが、実はあの島の外側には広がっていて、彼らとはそのフラットな「見る/見られる」、つまり「思い/思われる」関係というのが最初から成り立たない社会なんだ、ってことが改めて突きつけられるわけですね。目線が交わらない、という画を通じて。で、しかもマリアンヌの描いたそのね、オルフェウスとエウリュディケの絵ですよ。それはエロイーズと過ごしたあの海岸の場所をモチーフに描かれた、その絵も、お父さんの名義で出品されていて……という。現実にもよく、いっぱい歴史上でもあったこの構図が示されたりする。

そんな中で、マリアンヌの方をまっすぐ見る、ひとつの目があります。これが何か、ということですね。「籠の中にとらわれる」シンボルとしての肖像画……つまり、「嫁」の次は「母」という立ち位置に閉じ込めるための絵でもあるわけですけども。その中でさえもですね、エロイーズは、ひとりの人間として、しっかり、しかも間違いなく、マリアンヌのことを、見ている……つまり、思っているのだ、ということを示す、ある感動的なくだりがある。

■恐ろしいほど周到な、完璧なエンディング。これを傑作と言わずして何を言うのか?
で、ここで終わってもものすごい感動的な映画なのに、この映画は、さらにその先がある。「最後に彼女と会ったのは……」というこのエピソード。ここはもう、もはや多くは語りません。「見る/見られる」関係という本作全体を貫くモチーフがですね、意外な、しかし激しく胸を打つ形で、変奏されていく。まあ解釈は人それぞれあるようなラストですが、そうなっていく。しかもそれは、前半、マリアンヌがエロイーズに弾いてみせたある曲、話した内容、それを踏まえた、その音楽的でもあり、さっき言ったアート全般の救い、というような伏線回収にもなっている、という。もう、完璧なエンディングですね。恐ろしいほどの周到さ、という。

クレア・マトンさんの撮影とかも含めて、本当に全てが素晴らしく……みなさんも「絵画のようだ」と仰ってましたが、バチッとハマったショットの全てが美しかったですし。とにかくその、映画ならでの語り口というのをですね、現代のその女性の作り手として突きつめ、更新してみせた結果、これ以上ないほど純粋なラブストーリーというものを醸成してみせた、という。これを傑作と言わずして何を言うのか、という……こういうのが年末ランキングぎりぎりにやってくると、ただでさえ迷ってんのに困るな! という大傑作です。ぜひぜひ劇場でご覧ください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ワンダーウーマン 1984』です)


以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

 

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