中尾ミエさん、多忙なデビュー当時を振り返る

TBSラジオ「コシノジュンコ MASACA」毎週日曜夕方5時から放送中!

8月27日(日) 放送後記

福岡県小倉生まれ。1962年にデビュー曲「かわいいベイビー」が大ヒットして以来、歌手・女優として数々のTV・ドラマ・舞台などで幅広い活動をしています。

JK:この前も久しぶりに会ったけど、全然声が変らない! しゃべるだけで歌ってるみたいですよ。初めて会ったのは10代でしょ? 渡辺プロダクションのおうち。

出水:中尾さんは当時そちらに下宿してらしたんですか?

中尾:そうです。その時は1日中誰かお客様が来てて、お手伝いさんも24時間3交替!

JK:夜中に来ても必ず何か食べさせてくれたわね。

中尾:社長が家に帰ったら浴衣に着替える人で、「お客さんが来ても寝間着でいい」って。だから私そのころ普段着って持ってなかったんです。舞台衣装とお出かけ着しかなくて。伊東ゆかりも一緒に住んでたんだけど、仕事場に来ると冬場なんかコート脱ぐと下はパジャマ(笑)「だって帰って寝るだけだもん」って(^^)

JK:仕事とおうちだけだもんね! プライベートなし。

中尾:だからキャンティとか連れて行ってもらったときも、着ていく洋服がないのよ。仕事が忙しかったしね。私は案外大人の人と話すのが好きだったので、外に行くのも付き合っちゃうのよね。だから暗いうちに寝たことなかった(笑)

JK:仕事が忙しいのに夜まで! 懐かしい話になってきたわね(^^)

出水:デビュー前に遡ると、本屋さんだったそうですね。

中尾:教科書ね。そのころ九州の学校は全部うちが教科書卸してたんですよ。祖父が興した仕事で、父が長男だったので受け継いで。典型的な二代目ですよ、すっかりつぶして。私なんか、中学2か月しか月謝払えないって言われた。

JK:でもそれだけの苦労があるから信念があるわね。

中尾:仕事は生活のためだったから、辞めるとかなんとか思ったこともない。好きでもなかったんですよ。だって経験もないし・・・ましてや14や15で働く場所なんかないのよ、
ふつうは。

JK:ラッキーですね、10代で働けて大稼ぎするなんて! 大ヒットじゃないですか。

中尾:いやいや、そのころは給料制だから。10代の子どもだから。

JK:でも一番いい時期ですよ、あのころ。ウェスタンカーニバルからミッキー・カーティスだとか、初めてっていうのが全部そこに入ってるじゃない。

中尾:ちょうどTVもこれからっていう時期で、白黒からカラーに代わるころで、スタッフもすごい燃えてる頃だった。

JK:私もタイガースの仕事でウェスタンカーニバルでリハーサルして。スターだからリハーサルも朝方で、それまでずっと起きなきゃいけなかった。

中尾:ようするに劇場が休まないのよ。前日の出し物が夜までやるでしょ、それが終わってからリハーサルが始まって、次の日本番だから。夜中じゅうリハーサルして本番だから、もう大変! めちゃくちゃよね、昔も。

JK:あの当時の渡辺美沙さん怖かったもんね。うとうとっとして寝てたら、「起きてるか~ッ!」って言われて(^^;)

出水:家族のために仕事をしていたとおっしゃっていましたが、そもそも歌を始めたのは誰かの影響だったんですか?

中尾:いやいや、何もないですよ。ただ、昔は九州に住んでたから、兵隊がまだいっぱいいて、FENっていう外国専門のラジオがあって、ずっとジャズが流れているような家だったのね。母親が洋モノかぶれで、なんとなく音楽は耳にしてた。働くっていう時も「歌でも歌ってみようかな」って。

JK:聞いただけで歌えるの? でも英語でしょ?!

中尾:昔は各ラジオ局にジャズののど自慢っていうのがあったの。子どもが英語の歌を歌うと受かっちゃうのよ。のど自慢荒らしみたいな。

出水:1962年にデビューして「かわいいベイビー」が100万枚のヒットになりますが、その時の家族の反応は?

中尾:私自分で売り込みに行ったから、親は全然関与してないんですよ。友達が東宝の「シンデレラガール」をやってて、そこに行ったら体よく断られて。たまたま専務が「やりたいことがあったら力になってあげるよ」って言ってくれて、「歌でも歌おうかな」って言ったら紹介状を書いてくれた。それで渡辺プロに行ったら「夕方だからまた明日来なさい」って言われて。学生だから、学校終わってからまた行ったら「また明日来なさい」って。そんなのが続いて顔なじみになって、そのうち電話番したりして、ずるずる入って行っちゃったの。

JK:この番組はMASACAっていうんだけど、急に思い出したことあります?

中尾:私デビューしたのが15でしょ。30年渡辺プロにいて、社長がなくなったんですね。その時、次の世代にわたるから私みたいなのがいたらやりくいだろうなって。今からだったらまだ頑張れるなと思って渡辺プロを辞めたんですよ。それから30年1人でやってたんです。

JK:一人で? 30年も?! 1人でできるものなの?!

中尾:そう。だからみんなに「お前よくやってるな」って(笑)それで30年やってたんだけど、それこそおととし、渡辺プロと共同で『ピピ』をやったのね。終わって打ち上げでお酒飲んでた時に、今の社長のみきちゃんに「渡辺プロにまた戻ってもいい?」って(笑)

JK:この前みきちゃんに会ったけど、すごく嬉しかったみたいよ~。

中尾:みきちゃんもビックリして、「ちょ、ちょっと待って!」みたいな。でもそれこそマサカで、本当に戻ったんですよ!「ただいま」って。美沙さんが元気なうちに戻れてよかった。人生それこそ1周して、もとに戻ってよかったなと思っています。

JK:それ聞いて私もすごくホッとする! 長年やってて、いろんな出会いがあるでしょ? とくに思い出に残ってるのは?

中尾:ところが私、過去のことを一切覚えてないの! 自分の都合のいいことしか覚えてないから(^^;)

OA楽曲
M1. 誰かがあなたを愛しているから / 中尾ミエ

タグ

サンド伊達、渋々奢ってくれたますおか岡田の“言いつけ”を守りラジオで発表「必ずラジオで言えよ? ニッポン放送や! 分かっとるな?」

5月18日(土)、お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達みきおと富澤たけしがパーソナリティを務めるラジオ番組「サンドウィッチマン ザ・ラジオショーサタデー」(ニッポン放送・毎週土曜13時~15時)が放送。サンド伊達がプライベートで、芸人仲間(アンタッチャブル・山崎弘也、ますだおかだ・岡田圭右、次長課長・河本準一)たちとゴルフを満喫したことを報告。仲良しメンバーでの和気あいあいとした時間を過ごしていた一同ではあったのだが、お昼休憩時の山崎の一言が発端となり、突如として岡田に悲劇が訪れたという。

サンドウィッチマン・伊達みきお

伊達:ゴルフ、18ホールあるでしょ。9ホール終わったら、(お昼)ご飯食べて。また9ホールやるって流れなんだけど。

富澤:食事休憩みたいなね。

伊達:メニューを見ながらね、山崎さんが「あざっす!」とか言い出すのよ、急に。「岡田さん、ごちそうさまです!」って。

富澤:(笑)

伊達:「なんで払わなあかんねん!(お金)持ってるやんか、みんな」「いやいや、大先輩じゃないですか、どう考えても」みたいな……

芸人界のしきたりを盾に取った山崎は、一番芸歴の長い先輩である、ますだおかだの岡田にターゲットを絞り、お昼ご飯を奢るように仕向ける一言を言い放ったのだという。

伊達:で、岡田さんが2,000円のカツカレー頼んだのかな。

富澤:まあまあ高級ですからね、ああいうところね。

伊達:そしたら山崎さんが「俺、うなぎ食いたいんだよね」って。

富澤:ガッツリ行くんだ(笑)

伊達:山崎さんが「伊達ちゃんもうなぎ行く?」って。そしたら河本さんも「うなぎ、いいね」ってなって。1人前4,000円のうなぎですよ。「俺が半額のカツカレーで、(お前ら)その倍のうなぎ行くんかい!?」って。

富澤:(笑)

伊達:そして、うなぎを岡田さんにごちそうになって。

富澤:あ、出してくれた?

伊達:出してくれた! ものすごく、イヤイヤ。

富澤:(笑)

伊達:「必ずラジオで言えよ? ニッポン放送や! 分かっとるな? 『ラジオショー』で絶対言えよ? あとブログで書けよ!」

富澤:奢ってもらったって(笑)

伊達:「うなぎと言ったら、岡田や! いろんな人に『うなぎ奢ったんですね?』って、言われるように(布教活動を)せなあかんで!」と。

富澤:そんなに奢りたくなかったんだ(笑)

伊達:だから(ラジオで)言いました!

サンドウィッチマン・富澤たけし、伊達みきお ニッポン放送・東島衣里アナウンサー

岡田から勝手に突き付けられた公約をきちんと果たした伊達は、これでようやく『うなぎと言ったら、岡田』の呪縛から解放されるのであった。

radikoのタイムフリーを聴く

Facebook

ページトップへ