脳梗塞で左目を失明 余命5年を乗り越えたダースレイダーが病院不信になった両親の最期を語る

ミュージシャンでラッパーのダースレイダーさんが2月5日の大竹まことゴールデンラジオに登場。新著『イル・コミュニケーション―余命5年のラッパーが病気を哲学する―』にも書かれた両親の思い出を伺った。

大竹「今回の本は『イル・コミュニケーション』。この『イル』というのはどういう意味ですか?」

ダース「『イル』は英語で病気と言う意味なんですけれども、ヒップホップでは言葉の意味を反転させるというのがあって、『やばい』的な意味です。病気の状態は基本的には悪い、ネガティブな状態だと思われてるのを反転させて、かっこいい状態、通常の状態ではない、並じゃない状態っていう意味で、「あいつ、イルだね」っていうのは誉め言葉になるんですよ」

大竹「ダースさんは33歳の時に脳梗塞で倒れ、左目を失明。40歳のとき、医師から余命5年を宣告されましたが、その5年を生き延びました」

ダース「今ボーナス期間に突入しています。余命を生きてますみたいなね(笑)」

大竹「明るく言ってますけどね。本の中では、お母様が亡くなる時の闘病生活の模様が書かれています。ダースさんが何歳の時にお亡くなりになったんですか?」

ダース「僕が15の時ですね」

大竹「ああ、それは結構。元気なお母様が…」

ダース「そうなんです。母も50だったので若いといえば若いですね。首に難しいガンができてしまって治療を受けて。まあ子供だから、治療受けるとか病院に行くと治るもんだと思ってたんですけども、それで母が退院して家に帰って来るっていうから僕と弟は喜んで、お帰りなんて言ってたら、それはもう最終的な治療は受けないで家で過ごすと決めて帰ってきたんですよね。最後は2週間ぐらいかな、あの家にいて、そのまま家で息を引き取る。その決断の意味は後々すごく考えることになりましたね」

大竹「お母さまは絵をお描きになってたそうですね」

ダース「パリにも留学していて、芸大の油絵科だったので、それこそ亡くなる直前に銀座で個展を開いて、来てくれる人に立って絵の紹介とかをしたりもして、家事も僕とか弟の食事も作って、っていうことを最後までやってましたね」

大竹「お父様の和田俊さんは久米宏さんのニュースステーションで、あの頃コメンテーターをされていました」

ダース「90年代の頭の方で、ニュースステーションのコメンテーターをしていて、その後スーパーJチャンネルという夕方のニュースに出てたりしてましたね」

大竹「そのお父様も、お亡くなりになってしまう」

ダース「僕が24で父が66の時かな。父の場合は母と逆というか、すごく元気で。テレビの仕事で今も注目が集まっているイスラエルの取材に行くことになって、行く前に検査を受けたらたら喉に腫瘍が見つかったんですね。大学でも教えていたし、しゃべる仕事だから喉は大事に治療を受けたいということで、放射線治療が得意な北海道の病院に入院したんです。そしたら本来担当してくれるはずの医師が都合が合わず、でもせっかく北海道に来たんだからってことで北海道の病院で治療を受けているうちに、どんどん病状が悪化してしまって、逆に北海道から動けなくなっちゃって。結局、肺炎が併発して、喉にたんが溜まるからって喉に穴を開けて声帯を取ったんです」

このあとダースレイダーさんは病院に不信感を抱くようになり、仕事現場で脳梗塞に倒れます。

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苦難を乗り越え4年9カ月かかった“ゴミ拾い”「やらなければいけないことがたくさん見つかりました」

特急「踊り子」号に乗って、伊豆へ足を運ぶ途中、小田原駅を過ぎて車窓にパーッと相模湾が広がると、観光のお客さんが多い日には、車内の雰囲気が一気に華やいで、「見て見て、海!」という歓声が上がります。

この神奈川の「海」に沿って、自ら歩いて「ごみ拾い」をした男性がいらっしゃいます。

豊田直之さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

横浜生まれ、横浜育ちの冒険写真家にして、「NPO法人 海の森・山の森事務局」の理事長も務めている、豊田直之さん、65歳。

小学生の時、「釣り」をきっかけに、海の生き物に興味を持った豊田さんは、当時の東京水産大学に進学し、海に関する様々な仕事を経験されてきました。

豊田さんは、釣りにのめり込むうちに、その魚が海のなかでどんな動きをしているのか、餌を食べさせるとどうなるか、自分の目でもぐって見てみたいと考えて、実行に移します。そのユニークさから、豊田さんには釣り雑誌の連載がたくさん舞い込んできました。さらに大御所の写真家の方に学んで、水中写真の撮影も手掛けるようになります。

そんな豊田さんが、今から20年ほど前、雑誌の取材で訪れたオーストラリアのダイビング関係者から、こんなアドバイスを受けました。

「オレたちの国のまわりの海は、どんどんプラスチックのゴミだらけになっていっている。ミスター・トヨダ、日本もオレたちの国と同じく、周りを全部海に囲まれているだろう? 必ず同じことが起きるから、気を付けてくれよ!」

帰国した豊田さんは、静岡・熱海の沖に浮かぶ初島の海にもぐると、今までに見たことのないような物が、フワフワと近づいてきて驚きました。よく観ると、それは生き物ではなく、スーパーのレジ袋だったのです。

『水中写真を撮る人間として、海の負の面から目を背けてはいけない』

豊田直之さん

そう思った豊田さんは、2012年に「NPO法人 海の森・山の森事務局」を立ち上げて、本格的に海のプラスチックごみの問題に取り組んできました。しかし、2020年代に入って、コロナ禍で思うような活動が出来なくなります。三密回避、県をまたぐ移動は自粛、活動を休む団体も増えて、豊田さんは考えました。

「今、出来ることを細々とやっていきたい。神奈川県内の屋外で密にならずに出来ること。
そうだ、神奈川の海を少しずつ歩きながら、ごみ拾いするのはどうだろうか?」

豊田さんは、意見が一致した、神奈川在住のNPO法人の理事を務めていた60代の男性2人と一緒に、「3匹のおっさん プラごみバスターズ」を結成しました。

2020年4月、湯河原町の神奈川・静岡県境を流れる千歳川の河口から60代のおっさん・3人によるごみ拾いは始まりました。ただ、豊田さんたちは始めてみて、その道のりの長さに改めて驚きます。ゴールの都県境・多摩川の河口までは、なんと400キロ以上もあったのです。

スタート時の「三匹のおっさん」(2020年5月真鶴・三ツ石にて)画像提供:NPO法人海の森・山の森事務局

豊田さんたちは、週末を中心に、毎月1回、午前9時から午後4時まで、1日4~12キロくらいのペースで、ごみ拾いを続けていきました。

数か月後、湯河原から真鶴半島を回って小田原市の根府川に入ると、緩やかな弧を描いた相模湾の海岸線の先に、江の島が霞んで見えてきました。

「俺たちはいったい、あの江の島にいつ着くんだろう……」

思わずそうぼやいた頃、豊田さんは海岸のごみに一定の法則性があることに気付きます。ペットボトルのキャップだけが、海岸に打ち上げられているんです。じつは海に捨てられたり、流れ着いたペットボトルは、波の力でキャップが開くと、海水が入ってボトルだけ沈み、キャップだけが陸に打ち上げられてしまうのです。

ときにはこんな超ハードなエリアも(2020年6月真鶴半島にて)画像提供:NPO法人海の森・山の森事務局

「これはとんでもない数のペットボトルが、神奈川の海に沈んでいることになるぞ!」

えぼし岩を回り、江の島を過ぎると、やっと三浦半島の先のほうが姿を現しました。しかし、三浦半島の細かく入り組んだ入り江が、豊田さんたちの行く手を阻みます。それでも、スタートから2年半近くをかけて最南端・城ケ島に到達。要塞の島・猿島にも渡りながら、いよいよ東京湾に入ってきました。

最もごみが多かった三浦市内(2023年1月)画像提供:NPO法人海の森・山の森事務局

すると、今度は軍事基地や港湾施設が、3人のおっさんたちの前に立ちはだかります。仕方なく近くの道路沿いの清掃を行うと、違ったペットボトルの問題が見えてきました。港湾道路の広い中央分離帯の植え込みの陰に、恐らく物流のドライバーの方と思われる車内で小用を足した液体が入った大きなペットボトルがゴロゴロと捨てられていたのです。

様々な苦難を乗り越え、4年9カ月をかけて、昨年12月1日、豊田さんをはじめとした「3匹のおっさん プラごみバスターズ」の皆さんは、多摩川の河口に到着しました。集めたごみはおよそ3トン、うち、7割ほどが三浦市と横須賀市から回収されました。これは地形の関係で相模湾と東京湾のごみが、三浦半島に集まってしまうからなんです。

4年9カ月のごみ拾いを振り返って、豊田さんはこう話します。

羽田空港が背後に見える多摩川河口へ到達(2024年12月川崎市浮島町公園にて)画像提供:NPO法人海の森・山の森事務局

「達成感はありません。むしろ、やらなければいけないことがたくさん見つかりました。ペットボトルが、いったい海のどこに溜まっているのか、潜って確かめたいですね」

神奈川の海を自分の足で歩いた豊田さんは、もう、次に向かって歩き始めています。

「NPO法人 海の森・山の森事務局」HP
https://www.uminomoriyamanomori.com/

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