「今すぐ変えて!」ベテラン水谷アナが長年守る“流儀”を全否定した春風亭一蔵…何が逆鱗に触れたのか?

邦丸アナがお休みのピンチヒッターウィーク!9月15日のくにまる食堂は、春風亭一蔵さんと水谷加奈アナが登場。一蔵さんの近況を伺っていると突然、水谷アナの言葉に注文を付けてきた。

水谷「最近、真打ちに昇進される方の合同パーティーに出たそうですね。」

一蔵「あ~行った。9月の21日から我々が所属いたします「一般社団法人落語協会」では、4人の新真打ちが生まれるんですけど。お披露目のパーティーがあってですね、それが真打ち以上しか参加できないんですよ。」

水谷「そうなんですか。」

一蔵「私、去年真打ちになったんで、初めて案内状が来て。『春風亭一蔵師匠』って書いてあってですね。もうかなり嬉しいんですよ。それまで二つ目時代は、合同パーティーのお手伝いとか、受付とか、そういうのをやらせてもらってたんですけど、初めて出席して構わないという通知が来て。じゃあ行こうと、上野の精養軒に行ったら、二つ目のお手伝いが表にいるわけですよ。で、私が入っていくと「ご苦労様です!」みたいな、ちょっとVシネチックなこと言ってくれる。そこを、なんか慣れた風に通んなきゃいけない。ニコニコして「ああ、あいつやっぱ真打ちになって参加できて嬉しいんだ」って思われたくないんで。」

水谷「ちょっと竹内力を意識しなくちゃいけない。」

一蔵「(渋目の声色で)『…はい ご苦労さん…』みたいなこと言いながら入っていくわけですよ。(笑)分かりますか?ちょっとイキってる感じで。そうするとパーティールームの前に落語協会の事務員がいて「あっ師匠!おはようございます!」みたいな感じで迎えてくれる。そこも『…ご苦労さん…』みたいなことで通過するわけです。慣れてる感を出さなきゃいけないから。」

水谷「(笑)でも、やっぱり真打ちになるって大変なんですね。今までのようなスタンスでもいけないし、ちょっと虚勢を張らないといけない、みたいなのもあるし。」

一蔵「だから、水谷さんは僕を『一蔵さん』って呼ぶじゃないですか。」

水谷「はい?」

一蔵「『一蔵師匠』ですから。」

水谷「嘘でしょ?私、政治家の人たちを急に「先生」とか呼ぶのってすごく嫌いなんですよ。あと小説家の人に対して「先生」っていうのも嫌いで。例えば、この局内で立川志の輔さんがいらっしゃっても、林家たい平さんがいらっしゃっても、私は「師匠」とは言ったことがないんです。志の輔さん、たい平さん、これが私の流儀です。」

一蔵「じゃあ今すぐ変えてください。『一蔵師匠』ですから。」

水谷(笑)

一蔵「ラジオをお聞きの方も私と会った時は『一蔵さん』とは言わないで、『一蔵師匠』と必ず言うように。調子こいてないですよ。これが普通ですから。」

水谷「分かりました、一蔵師匠。」

真打ちに昇進してイキりまくっている一蔵師匠の名調子はこの後もたっぷり続きます!気になる方はradikoのタイムフリー機能でご確認ください。

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亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

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