日曜劇場常連俳優・迫田孝也「あの時の大学生です!」 奄美大島でのお手伝いから、今や日曜劇場に出演!

個性豊かな様々なゲストをお迎えして、幼少期のターニングポイントや、やる気スイッチの入った瞬間を深掘りしていきます。
メインパーソナリティの佐藤隆太さんと佐々木舞音アナウンサーの2人でお送りします。
今年最初の1月20日(月)放送のゲストには、俳優の迫田孝也さんが登場。お芝居との出会いや、学生時代のお話まで、様々なことを聞いちゃいました!

迫田:(昔の共演以来)あまりご一緒したことないから、テレビで見る方が多いです。それこそだから「ルーキーズ」とか「木更津キャッツアイ」もそうだし、「池袋ウェストゲートパーク」もそうだし、ちょうど僕が出てきたぐらいのときにめちゃめちゃ出てらっしゃったから。

佐々木:お会いするのは久しぶりなんですか?

迫田:うん、ほとんどこうやって直接お会いしたことはないかな。

佐藤:今日いろいろお話伺えるということで楽しみにしています!

山田洋次との出会いで演技の世界へ!20歳で転機を迎えた奄美大島での出来事

佐藤:元々お芝居に興味を持たれたのは、どのタイミングなんですか。

迫田:20歳ぐらいのときに、奄美大島に遊びに行ったんですよね。僕の同級生の親戚がちょうどいて、そこに僕、夏休みを利用して遊びに行ったんですよ。そしたら山田洋次監督のあの映画の組の皆さんがバカンスで、その同じ時期に訪れていて。僕もそこにお世話になってたもんだから、一緒に遊ぶ機会があって。そのときに、スタッフさんとかの映画制作のお話とかドラマの裏話とかそういうふうなのを聞いて、「面白そうだな」と思ったのが最初だったんです。

佐藤:面白いきっかけですね!大学も教育学部に?

迫田:はい。父が教師だったんで、それこそ教師を目指して勉強はしていたんですよね。

佐藤:でもそれって相当大きな出来事というか出会いですよね。だってご家族でもそういう環境で育てられて、自分も教師になろうと思う、夢というか目標というか、道っていうのはもう幼い頃からずっと、もう自然な流れがあった中で、この出会いによって一気にその方向が変わるわけですよね。

迫田:なんかでも、多分ちっちゃい頃から目立ちたがり屋だとか、そういうテレビとか映画っていうのはずっと好きで見てたんで、何となくもしかしたら少しずつそっちに育っていった部分もあったのかもしれないですけどね。

佐藤:きっかけとしてはあんまり聞かない。なんか素敵なエピソードですね!その後、そのとき会ったクルーの方とお仕事を始めてから再開したみたいなことは?

迫田:ある何人かと再開しました。それこそ山田さん。一緒にお仕事するまでは結構、10年以上はかかったんですけど、ご飯食べたときにその一緒にいらっしゃったスタッフの方に「あの時の大学生です!」っていう。

佐々木:スタッフさんも嬉しいですよね、きっと!

佐藤:すごいドラマチック!

迫田:全然忘れてましたけど。(笑)

佐々木:でも運命的!きっと導かれてはいたんですよね。

迫田:タイミングだなって自分でも思いますよね。

佐々木:なんか迫田さんって面白い役もやるけど、「VIVANT」とかはちょっと怖い役というか、そういうのはご家族が見て、あれは大丈夫なのかみたいにならないですか?

迫田:家族とはね、そんな話あんまりならないんですけれども、やっぱり逆に何か…世論ですよね。はい。イメージが付いちゃいますからね、なんか何やっても「あいつは信じられない」とか。

佐藤:あります、ありますよね~。

迫田:全然、何にも裏なんかないのに「何か怪しいよね」って言われるようになり始めたの、この日曜劇場のせいですよ!(笑)でも、楽しんで見てくださってるってことでいいんですよね。

佐藤:僕もそういうふうにポジティブに受け止めようとしてますけども。(笑)結構役にどっぷり浸かってるというか、ちゃんとその人として見れてるっていうことだから。

三谷幸喜の作品に憧れて上京!夢や目標を叶える今の自分は「恵まれてます」

迫田:小学校から、それこそ大学までずっとバレーボールやってて。僕はセッターになって、でもどんどん高校大学ってなっていくと、僕の身長じゃ太刀打ちできなくなったんだときに、リベロができた。大学でもようやく生き残れて、最後はリベロで。

佐々木:ずっとバレーボールやられてて、でも急な方向転換って結構大きい決断ですよね。

迫田:父に話すときだけはやっぱり緊張しますね。なんていうんだろう、自分の後を継ぐような長男だったから、そういう思いもあっただろうし、途中までは安心してた長男がまさかの芸能界に憧れちゃうみたいな。でも、結構覚悟して父に電話したんですよね。大学まで結構辞めるつもりで、それぐらいの覚悟で東京に行って役者を目指したいっていうことを伝えたかったんですけど、でもそのとき、父と話す中では「卒業だけはしろ」っていうことが条件として出されて。割とすんなりと「分かった」って言ってくれたのがありがたいですね。なんかすごい、自分が空回りしちゃったみたいな。

佐々木:でも三谷幸喜さんとの出会いも一つの転機となったそうですね。

迫田:俳優になってからの転機といえばもうやっぱり三谷さんとお会いできたというか。作品に参加できたんで、そのマジックアワーが、やっぱりすごく転機かと。それこそこういう紙に、ワンシーン書かれてて。確か監督と助監督の会話だったんですね。実際に僕のときにはその三谷さんが実際審査員席というか、いらっしゃって。初めてそれがお会いしたときだったんで、鮮明に残ってますね。

佐藤: 元々三谷さんの作品はすごい好きだったんですか?

迫田:大学4年のときに、辺りに何かいろいろ勉強しなきゃなと思って見たのが「12人の優しい日本人」っていうのを見て、すごく面白いと思って。そのときにこの三谷さんとお仕事をしようと思って上京して来たのが目標として。

佐藤:話聞いてると、まだ一部でしょうけど、なんかこう、思ったことをすごく叶えていらっしゃるっていうか。

迫田:恵まれてますよね。

佐藤:いやそれはやっぱりご自身の何て言うんですか、行動力だったりとか、周りを巻き込む力だったりとか、そういうことなのかなと思いますけど。

迫田:自分自身でも本当にそういうタイミングやチャンスに恵まれてるなと思います。

(TBSラジオ『やる気スイッチラヂオ アストルム』より抜粋)

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みかんに魅せられた大学生、異郷の地で大挑戦「多くの人においしいみかんを食べてほしい!」

暦の上では春になっても、まだまだ「こたつ」が恋しい時期です。こたつに入ると食べたくなるのが、やっぱり「みかん」。

ただ、どんな方がみかんを作っているのか、あまり知らない方も多いと思います。今回は、果物好きが高じてみかん農家になった、北国出身の若い男性のお話です。

赤山大吾さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

昔、東京と沼津の間を結ぶ電車を「湘南電車」と呼んでいた時代がありました。車両のオレンジと緑のカラーは「湘南色」、俗にみかん色とも云われてきました。今はだいぶ本数も減りましたが、東京駅のホームに、「沼津」と行先が表示されると、何となく、潮の香りと柑橘系の爽やかな香りが漂ってくるような気分になります。

その静岡県沼津市・西浦地区は、駿河湾の最も奥まった所にあって、海越しの富士山を望むことが出来る、風光明媚なみかんの産地として知られています。看板品種は、寿という字に太郎と書いて、「寿太郎」。この「寿太郎」を、今シーズン初めて作り上げて、出荷した男性がいます。

赤山大吾さんは、2000年生まれの24歳。赤山さんは、北海道・札幌のご出身で、小さい頃から果物が大好きでした。土地柄、みかんはあまり出回らないため、りんごを2個、まるかじりするのが日課。残すのは、わずかに芯の部分だけでした。

赤山さんは新潟の大学に進学しましたが、コロナ禍のために授業はリモートが中心。学ぶ内容も想像していたものと違って、あまり納得がいきませんでした。悶々とした日々を送る中で、赤山さんはたまたま近所のスーパーで「沼津・西浦みかん 寿太郎」と、ラベルが貼られた袋を手に取ります。

『寿太郎? 沼津ってドコ?』

赤山さんは、そう不思議に思いながら、家に帰って、さっそく皮をむいて、みかんの小さな袋を一つ、口のなかに入れると、いままでにない食感に感激しました。

『甘い! でも、甘いだけじゃない、甘みと酸味のバランスが絶妙だ!』

赤山さんは、「寿太郎」を食べて、食べて、食べまくりました。そのおいしさに満たされるうちに、自分でもみかんを作りたい気持ちが芽生えます。

沼津市西浦地区のみかん山(画像提供:JAふじ伊豆)

赤山さんは、居ても立ってもいられずに、寿太郎を出荷している沼津のJAに、直接電話をかけました。

「あの……、みかん作りに興味があるんです。教えてもらうことは出来ますか?」

2022年2月、赤山さんは大学を休学して、沼津にみかん作りの研修にやって来ました。地元の農家の皆さんも、北海道出身の赤山さんの挑戦に驚いたといいます。

その初顔合わせ、農家の皆さんは赤山さんの手を見るなり、思わず目を見張りました。

『おお、彼は本物だ! これだけみかんが好きなら、きっとやってくれる!』

そう、赤山さんの手は、みかんをいっぱい食べた、あの黄色い手になっていたんです。赤山さんは、西浦地区でもとくにおいしいみかんを作ると定評のある、御年80歳の大ベテランの農家の方に付いて、みかん作りを学び始めました。

「いいか、農家というものは、人に言われてじゃなくて、自分から動かないとやれないぞ」

「みかんは手間をかければかけるほど、ちゃんと応えてくれる。手間を惜しむな」

赤山さんは、師匠がかけてくれる言葉を一つ一つ噛みしめながら、その背中を追いかけていきます。厳しい言葉の後には、夕飯のおかずをおすそ分けしてくれたり、地元の皆さんの人柄の温かさも、故郷を離れた赤山さんには大きな励みになりました。

赤山大吾さん

籍を置いていた大学にも退学届を出して、退路を断った赤山さんは、2年間の修業を経て、2024年1月、晴れて独立を果たします。高齢でみかん作りが難しくなった方のみかん山・およそ1.5ヘクタールを借り受けて、自分の力が試される時がやって来ました。

いざ作り始めてみると、農家はみかんを作っていればいいわけではなく、事務手続きや生産計画作り、害虫や猛暑対策、アルバイトの雇用などを、全部1人でこなします。

それでも去年は概ね天候に恵まれ、周りの皆さんのサポートにも支えられながら、およそ1万キロの「寿太郎」が無事に実って、収穫することが出来ました。その出来栄えに、赤山さんも手ごたえは十分! 早速、地元の方に食べてもらうと、「おいしい!」と、味に太鼓判を押してくれました。

自分で収穫したみかんが出荷されていく様子を見て、赤山さんは胸が高鳴りました。

『自分で作ったみかんが誰かの手に渡っていく。ようやく自分で稼ぐことが出来たんだ!』

でも、赤山さんに収穫の喜びに浸っている暇はありません。まだ、みかんの管理に甘い点があったこと。そして、この冬は、越冬しているカメムシが多いため、今年は天敵への抜かりない対策が求められそうなことなど、しっかり気を引き締めています。

「もっとおいしいと言ってもらいたい! 多くの人においしいみかんを食べてほしい!」

その思いを胸に、赤山さんは2年目のみかん山に登ります。

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