甲府空襲はどんな戦災だったか、そして歴史から学ぶべきこと
渡辺麻耶が木曜日のDJを担当するFM FUJIの番組『Bumpy』(毎週月曜~木曜、13:00~18:50)。8月15日のオンエアにフリージャーナリストの松田宗弘さんが出演し、甲府空襲について解説しました。
松田:今日15日は、昭和20年8月15日の第79回目の終戦記念日ということで、終戦の約40日前の7月6日の夜から、翌日7月7日にかけて行われた「甲府空襲」――いわゆる「たなばた空襲」のお話です。笛吹市春日居郷土館・小川正子記念館で、開催中(9月16日まで)の企画展「わが町の8月15日展~甲府空襲と笛吹市~」(山梨新報8月9日付掲載)を昨日見てきました。私が書いた記事ではないのですが、そこで考えさせられたことについてご紹介します。
麻耶:終戦の年、全国的に空襲があったそうですが、甲府空襲はどのくらいの戦災・被害だったのでしょうか。
松田:昭和49年(1974年)の甲府市の調査によると、昭和20年7月6日午後11時40分、爆撃機のB29・131機が山梨県内に侵入、県内の死者・行方不明者は1127人、焼けた家は1万8094戸。ちなみに甲府空襲の約4カ月前、昭和20年3月10日の「東京大空襲」――下町を焼夷弾で焼き払う空襲では、東京大空襲・戦争資料センターによると、死者数は焼死、水死などで9万5000人を超え、被災家屋は27万戸でした。住宅密集地で住民を殺戮し、戦争の継続意志を削ぐことが主目的だったそうです。東京大空襲は死者数で甲府空襲の80倍を超えますが、どちらも、無差別爆撃ですから数の問題ではありません。その1カ月後の広島、長崎への原爆投下も含め、戦争ならば相手が民間人であろうがそうでなかろうが「何でもあり」という「戦争の邪悪さ」に問題があります。
麻耶:甲府空襲では笛吹市でも空爆があったわけですね。
松田:はい、企画展では、空爆で亡くなられた笛吹市内の10歳と11歳の女の子2人の顔写真と説明書きが展示されていました。お母さんの証言録によると、10歳の女の子はいったん母と祖母と3人で防空壕に避難したが、女の子が「かばんを忘れたから、持ちに(取りに)行くんだ」と言って、自宅に戻ったところで不運にも直撃弾を受け、玄関の近くでうつ伏せの状態で倒れていたそうです。女の子が戻る前、その手を握っていた祖母は「危ないから行っちゃだめ」と止めたのですが、母の証言録には、「小学校5年生の娘にとって、学校の教材が入っているカバンは何よりも大事だったのでしょう」と書かれていました。
麻耶:企画展には戦死した英霊の写真も飾られていたそうですね。
松田:女の子2人を含め笛吹市出身の軍人の戦死者は1127人――甲府空襲の死者と偶然の一致です――その遺影もあり、石和、春日居、御坂、境川など市内の出身地域別で飾られていました。写真1枚1枚に、氏名、年齢、所属部隊、戦死地などが書かれ、年齢は18歳ぐらいから20~30代の若者を中心に、40~50代が少しでした。先の女の子と同様に、ひと柱、ひと柱の英霊に、戦死までの物語があったのだと思います。また、ガラスショーケースには、戦後収拾されたと思われる、錆びて朽ち果てた鉄兜から、眼鏡ケース、カバン、軍靴、軍隊手帳、手紙、写真から、日章旗への寄せ書き、投下された焼夷弾の残骸などがありました。
麻耶:松田さんは、冒頭で「甲府空襲から考えさせられました」と言われました。今、どんなことを伝えたいですか。
松田:甲府空襲、東京大空襲を含め、当時の空襲は、繰り返しますが「民間人」や住宅、学校・病院など民間施設などへの無差別攻撃でした。軍需工場などへのピンポイントの爆撃ではなかった。この非人道的で、現在、国際法、国連憲章で認められていない「民間人への攻撃」が、79年後の今でも、ロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルによるパレスチナ「ガザ地区」への攻撃において、堂々と行われています。為政者はまったく歴史に学んでいない、というか、学ぶ気がないというか、その行動原理は、「自国の利益最優先、自身の権力基盤の維持・強化」ということで、人命を何とも思っていない。そのことに強い憤りを感じるとともに、今後の世界を考えると、戦争抑止に全く役に立たない「国際連合」の枠組みを変える必要があると思います。その「解」は私自身、持ち合わせていない、というか、だれも持ち合わせていないのかもしれませんが、このまま、座視していいことにはならないのではないか。英霊の写真を見ながら、そんなことを考えました。
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