難病って何種類ある?初開催の「やまなし難病フェス」をリポート

渡辺麻耶が木曜日のDJを担当するFM FUJIの番組『Bumpy』(毎週月曜~木曜、13:00~18:50)。10月9日のオンエアにフリージャーナリストの松田宗弘さんが出演し、難病について解説しました。

松田:今日は10月1日に県の防災新館で開かれた「やまなし難病フェス2025」を取材しまして、その時のお話をします。主催は山梨県難病・疾病団体連絡協議会(山梨難病連)。当日は所属の6患者団体が参加しました。それでは、まず、「難病」についての基礎知識からお話します。麻耶さん、難病はどのくらいの数があると思いますか。

麻耶:難しいですね。どのくらいでしょう? 2ケタから多くて100ぐらいでしょうか?

松田:私も知らなかったのですが、厚生労働省によると、「難病法」という法律に基づく「指定難病」は、2025年4月現在で348です。「難病」とは、「発症の機構が明らかでない」「治療方法が確立していない」「希少な疾病である」「長期の療養が必要である」という要件を満たす疾患。難病全体のうち、「患者数が国内で一定数(18万人)に達しない」「客観的な診断基準、またはそれに準ずる基準が確立している」という要件を満たすとこの「指定難病」となり、重症患者には医療費も助成されます。

麻耶:フェス参加の6団体はどのような患者さん達だったのでしょうか。

松田:山梨難病連は1999年に発足しました。疾病によって患者数の多寡(多い少ない)はありますが、疾病は違っていても、思いや悩みは共通部分も多いことから、一緒に活動し、講演会や交流会、会報誌の発行などを行っています。6患者団体は、病名で言うと、まず①膠原病(ウイルス・細菌から体を守る免疫が、誤って自分の体を攻撃して様々な臓器障害を起こす)。以下は神経疾患(神経内科)で、②パーキンソン病(神経細胞の障害で発症。手の震え、動作緩慢、筋肉硬化、転びやすいなど)、③ALS(筋委縮性側索硬化症=手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉が次第にやせ、力を失う)、④筋ジストロフィー(遺伝性筋疾患。筋萎縮などが生じ、筋力低下、運動機能障害をもたらす)、さらに、⑤「多発性硬化症・視神経脊髄炎」(中枢神経系を覆う被膜が壊れ、神経症状を繰り返すのが多発性硬化症。主に視神経と脊髄に由来するのが視神経脊髄炎=赤字部分は生放送では省略)、⑥「脊椎小脳変性症・多系統萎縮症」(いずれも、運動機能に影響を与え、日常生活を困難にする神経疾患。診断・症状、治療法が両者で異なる=同)です。

麻耶:フェスは毎年、開催されているのですか。

松田:いえ、今回が初めてでした。難病連の川手元代表幹事に伺ったところ、「難病連は任意団体で、予算面で開催できなかった」そうです。開催の動機については、「難病連の活動が26年目に入った歴史があり、約20年前には県の『難病相談・支援センター』が開設されているにもかかわらず、多くの県民はその存在すら知らない。そもそも患者会があることさえも知らない人が多く、社会の認知度を上げなければいけない」というお話でした。現実には、「難病を患ったら、もう全てダメだ」と諦めて家に閉じこもる人が少なくないそうです。だからこそなのでしょうね、「社会的認知度を上げ、患者同士がつながって支え合い、体験談を交換して交流していきたい」という思いを強くされていました。

麻耶:フェス会場では患者の方からどのようなお話を聞かれましたか。

松田:奥様が30代後半でALSに疾患し、発症から38年という元県職員の方から、個別取材でお話を聞きました。県の保健所の保健師だった奥様が手に脱力感を感じたのが1988年夏。翌年、山梨医大で「ALS」と診断され、手に力が入らなくなり、包丁が持てなくなり、顔が洗えなくなり、足も不自由になり、しょっちゅう転ぶようになり、発症から2年後の90年には「車いす」になったそうです。それでも、2002年まではリハビリと並行し、奥様は日数を減らしながら勤務を続けました。ご主人自身も、病院などへの送迎などで、定時出退勤ができなくても、職場のみなさんが助けてくれて、大変、感謝されていました。

麻耶:そうなんですね。難病患者の皆様を直接、取材され、松田さんはどうお感じになりましたか。

松田:いろいろお話はあって、番組では紹介しきれないのですが、今のALS患者さんの話に戻ると、このやり取りの中で、私は山梨県庁が、今年度から全国で初めて、難病患者の職員を採用した話を思い出しました。新規採用は3人で、これについては、「山梨新報」――新聞の方で取材中なので、来月の放送で改めてお話したいと思います。

Bumpy
放送局:FM FUJI
放送日時:毎週月曜~木曜 13時00分~18時50分
出演者:鈴木ダイ(月)、上野智子(火)、石井てる美(水)、渡辺麻耶(木)
番組ホームページ
公式X

Xハッシュタグは「#ダイピー」(月)、「#ばんぴーのとも」(火)、「#てるぴー」(水)、「#ばんまや」(木)

出演番組をラジコで聴く

※該当回の聴取期間は終了しました。

金融マンと寿司職人の“二刀流” 50歳を過ぎて寿司職人の学校へ入学した男性

11月は新米のシーズンということもあるのでしょうか。1日が「すしの日」、22日は「回転寿司記念日」と寿司にまつわる記念日が続きます。寿司ロボットの技術は見事ですが、やはり、職人さんが握った寿司はたまりませんね。

画像提供:小川浩司さん

今回は、金融マンの傍ら、“出張寿司職人”としても活躍されている男性のお話です。

大きな観音様が駅を見守る、神奈川県の大船。この大船ご出身で、いまも鎌倉・腰越にお住まいの小川浩司さんは、昭和44年生まれの57歳。普段は、都内の会社で金融関係の仕事をされています。

実は小川さん、もう一つの顔があります。週末を中心に首都圏各地で開かれるホームパーティーに出向いたり、お店を間借りして、手際よく寿司を握っている“出張寿司職人”なんです。だいたい、ひと月に3回、この3年半でおよそ120回の“出張”を重ねてきました。

若い頃の小川さんは、「スタミナが第一!」と、魚よりも肉でした。なかでも焼肉が大好きで、地元・神奈川に多い精肉スーパーの超常連。さらに本場・韓国、ソウルの明洞に足しげく通っていたこともあって、友達からは“ヨン様”ならぬ“ミョン様”とニックネームを付けられたほどだったんです。

そんな小川さんが寿司に目覚めたのは、コロナの時期でした。在宅勤務の空き時間、ぼんやりとインターネット動画を眺めていると、あるインフルエンサーの方が、寿司をテーマにしゃべっていたことをきっかけに、「寿司職人」という仕事が気になり始めます。

小川さんはその時、50歳を超えたばかり。仕事・家庭・趣味も充実していましたが、定年後のことを考えると、経済的なことや社会とのつながりに少し不安もありました。

「もしも、寿司を握ることが出来れば、定年後にすし屋さんのパートでも働けるし、たとえ、自給自足の生活になっても、魚をさばければ生活できるはずだ!」

色々と考えた小川さん、まずは寿司職人への道を一歩踏み出すことにしました。

小川さんは、寿司職人を養成する専門学校の門を叩きます。1クラスには20人くらいいましたが、見渡すと周りは、海外に寿司屋さんを出して一旗揚げようという若い人たちばかり。でも、何人かは、同じように手に職をつけたいと考えた中高年の方の姿も見えました。

最初のステップは、寿司のにぎり方を徹底的に学びます。にぎり寿司に合ったシャリの量と重さを、サッと手に取った指先の感覚で憶えていかなければなりませんが、小川さんはさっそく苦戦。シャリの形を整えていくのもままなりません。

続いて、小川さんの前に立ちはだかったのは、様々な魚たちでした。アジを三枚におろしていくのも、なかなかきれいに出来ません。穴子が出てくると骨の多さに大苦戦。真鯛はウロコの多さに、もう圧倒されてしまいます。一方、脂がのったブリに至っては、どこから包丁を入れていいのか迷うばかり。でも、小川さんは諦めませんでした。

「せっかく始めた以上は、何とかして形にしたい!」

その思いを胸に練習に練習を重ねた小川さん、いつしか魚の筋肉の繊維をサッと見極め、迷わずスッと包丁を入れ、身と骨が分かれるように捌くことが出来るようになります。

晴れて2022年春、小川さんは、無事に専門学校を卒業。お勤めになっている会社の上司の方に、寿司職人としても活動したいと申し出ると、まるで目が点になったように驚かれました。それでも寿司職人への熱い思いを伝えると、副業として認めてくれることになりました。

今ではお店を間借りして営業する機会やリピーターのお客さんも増えてきた小川さん。少し前にはお子さんの高校合格のご褒美に、“人生初めての回らないカウンター寿司”を食べさせてほしいという依頼も受けたそうです。

「子供が元気よくお寿司を食べてくれたり、カウンター越しにお客様から直接美味しいとおっしゃっていただけると、やってよかったという気持ちになりますね」

一方、寿司を握り始めたことで、本業のお仕事にもいい影響が出てきたといいます。

「副業が出来たことで、思い切りがよくなりました。たとえ本業でヘマをしたとしても、副業があるからと気持ちがラクになったんです。これから、もっと年齢を重ねてもチャレンジは続けていきたいと思っています」

金融マンと寿司職人、小川さんの“二刀流”への挑戦は、新たな人生を切り開いています。

Facebook

ページトップへ