石川さゆり “他人のオーディションはがき”で人生激変!?「それまで牛乳配達をやっていたんです」

フリーアナウンサーの唐橋ユミがパーソナリティをつとめるTOKYO FMのラジオ番組「NOEVIR Color of Life」(毎週土曜9:00~9:30)。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。各界を代表して活躍する女性ゲストが、自らの言葉でメッセージを伝えます。

5月のマンスリーゲストは、歌手の石川さゆりさん。4月に最新曲「日々呉々(くれぐれ)と」(作詞・作曲/宮沢和史さん)をリリースした石川さんに、デビュー秘話などについて伺いました。


石川さゆりさん



1958年(昭和33年)生まれ、熊本県熊本市出身の石川さん。1973年、15歳でシングル「かくれんぼ」で日本コロムビアよりデビュー。1977年に「津軽海峡・冬景色」が大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞受賞し、同年19歳でNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。その後、「天城越え」「風の盆恋歌」「ウイスキーが、お好きでしょ」など、時代を超えたヒット曲を次々に世に送り出す。また、演歌の枠を超え、布袋寅泰さん、亀田誠治さん、東京スカパラダイスオーケストラ、奥田民生さんなどジャンルを超えたミュージシャンともコラボレーションしています。

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唐橋:石川さんの芸能界への架け橋となったのが、テレビのオーディション番組「ちびっこ歌謡大会」とのことですが、これは何歳のときですか。

石川:中学3年生、14歳のときですね。

唐橋:これはご自身で出たいと思われたのですか。

石川:いえ、私は当時、歌のお稽古に通っていたのですが、そこに来ていた女の子が「オーディションのハガキを出して返事が来たのよ」と言っていたんです。「すごいな、彼女は歌手への道がすごく近くなるんだな」と思っていました。それは夏休みのコンクールだったのですが、次に会ったときにその子が「おばあちゃんの家に家族みんなで帰る日と重なっちゃったから、行けないんだって」と言うんですよ。「えっ、じゃあもったいないじゃない。そのハガキ、私にちょうだい」と言ってもらって(笑)。オーディション会場に行って、名前を書き換えたんです。

唐橋:ええ(笑)!?

石川:書き換えて良かったのかは分からないんですけど、出したら「どうぞ」と言われたので、ピアノの伴奏で歌いました。そうしたら受かってしまい、テレビに出ることになりました。第1週、第2週、第3週……と毎週チャンピオンが生まれるのですが、8月の終わりに「チャンピオン大会」があり、そこまで進んでチャンピオンになってしまったんです。

唐橋:すごいですね。

石川:「ひぇ~チャンピオンになっちゃった……!」という状態で夏休みが終わりました。そうしたら9月になってすぐにテレビ局の方から連絡があり、「局へ保護者と来てください」と言われて行きました。すると「10月からの新番組で、石坂洋次郎さん原作の『光る海』というドラマがある。これにレギュラー出演をしてもらいたい」と言われたんです。

唐橋:ええ。

石川:「私、歌手になりたいんです」と言ったら、「いろいろな意味で、この2クール(半年間)をやっておくと勉強になるから、やってごらんなさい」と言われました。今思うと、のちに吉永小百合さんと結婚された岡田太郎さんが演出をされていました。そのときから私は「石川さゆり」という名前で仕事を始めましたね。

唐橋:急に演技のお仕事が始まったのですね。

石川:そうなんですよ。だから8月の終わりに「わ~い! チャンピオン!!」と言っていたのに、9月11日頃にはもうスタジオに入っていました。「何が起きたんだろう!?」という感じでしたね(笑)。最初はドラマのお仕事から入って、沖雅也さんの妹役を演じました。それをホリプロの方がご覧になっていて「うちに来ませんか」ということになり、ドラマをやりながら事務所に所属して、翌年の3月に歌でデビューしました。

唐橋:15歳のときですね。

石川:そうですね、14から15歳になる頃です。普通の中学生が突然テレビのドラマに出るようになったのですが、私はそれまで牛乳配達をやっていたんです。

唐橋:ええ、そうだったのですか。

石川:歌のお稽古に行きたかったものですから。月末の集金もやっていたのですが、配達のお家に行くと「あなた、最近テレビに出てない?」と言われて(笑)。

唐橋:バレてしまいますね(笑)。

石川:テレビに出ているのに牛乳配達をやっているというのは、今思うとおかしいですよね。「はい」と言えばいいのに、ちょっと恥ずかしいと思ったのか、「いや、出てません」と言いながら(笑)、そんなことをしつつドラマをやっていました。

――石川さゆりさんは、従来の豪華なフルバンド編成でのコンサートに加え、少編成による「アコースティックコンサート」も開催しています。公演情報など詳しくは、石川さゆりさんの公式サイトをご覧ください

<番組概要>
番組名:NOEVIR Color of Life
放送日時:毎週土曜 9:00~9:30
パーソナリティ:唐橋ユミ
番組Webサイト: https://www.tfm.co.jp/color/
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金融マンと寿司職人の“二刀流” 50歳を過ぎて寿司職人の学校へ入学した男性

11月は新米のシーズンということもあるのでしょうか。1日が「すしの日」、22日は「回転寿司記念日」と寿司にまつわる記念日が続きます。寿司ロボットの技術は見事ですが、やはり、職人さんが握った寿司はたまりませんね。

画像提供:小川浩司さん

今回は、金融マンの傍ら、“出張寿司職人”としても活躍されている男性のお話です。

大きな観音様が駅を見守る、神奈川県の大船。この大船ご出身で、いまも鎌倉・腰越にお住まいの小川浩司さんは、昭和44年生まれの57歳。普段は、都内の会社で金融関係の仕事をされています。

実は小川さん、もう一つの顔があります。週末を中心に首都圏各地で開かれるホームパーティーに出向いたり、お店を間借りして、手際よく寿司を握っている“出張寿司職人”なんです。だいたい、ひと月に3回、この3年半でおよそ120回の“出張”を重ねてきました。

若い頃の小川さんは、「スタミナが第一!」と、魚よりも肉でした。なかでも焼肉が大好きで、地元・神奈川に多い精肉スーパーの超常連。さらに本場・韓国、ソウルの明洞に足しげく通っていたこともあって、友達からは“ヨン様”ならぬ“ミョン様”とニックネームを付けられたほどだったんです。

そんな小川さんが寿司に目覚めたのは、コロナの時期でした。在宅勤務の空き時間、ぼんやりとインターネット動画を眺めていると、あるインフルエンサーの方が、寿司をテーマにしゃべっていたことをきっかけに、「寿司職人」という仕事が気になり始めます。

小川さんはその時、50歳を超えたばかり。仕事・家庭・趣味も充実していましたが、定年後のことを考えると、経済的なことや社会とのつながりに少し不安もありました。

「もしも、寿司を握ることが出来れば、定年後にすし屋さんのパートでも働けるし、たとえ、自給自足の生活になっても、魚をさばければ生活できるはずだ!」

色々と考えた小川さん、まずは寿司職人への道を一歩踏み出すことにしました。

小川さんは、寿司職人を養成する専門学校の門を叩きます。1クラスには20人くらいいましたが、見渡すと周りは、海外に寿司屋さんを出して一旗揚げようという若い人たちばかり。でも、何人かは、同じように手に職をつけたいと考えた中高年の方の姿も見えました。

最初のステップは、寿司のにぎり方を徹底的に学びます。にぎり寿司に合ったシャリの量と重さを、サッと手に取った指先の感覚で憶えていかなければなりませんが、小川さんはさっそく苦戦。シャリの形を整えていくのもままなりません。

続いて、小川さんの前に立ちはだかったのは、様々な魚たちでした。アジを三枚におろしていくのも、なかなかきれいに出来ません。穴子が出てくると骨の多さに大苦戦。真鯛はウロコの多さに、もう圧倒されてしまいます。一方、脂がのったブリに至っては、どこから包丁を入れていいのか迷うばかり。でも、小川さんは諦めませんでした。

「せっかく始めた以上は、何とかして形にしたい!」

その思いを胸に練習に練習を重ねた小川さん、いつしか魚の筋肉の繊維をサッと見極め、迷わずスッと包丁を入れ、身と骨が分かれるように捌くことが出来るようになります。

晴れて2022年春、小川さんは、無事に専門学校を卒業。お勤めになっている会社の上司の方に、寿司職人としても活動したいと申し出ると、まるで目が点になったように驚かれました。それでも寿司職人への熱い思いを伝えると、副業として認めてくれることになりました。

今ではお店を間借りして営業する機会やリピーターのお客さんも増えてきた小川さん。少し前にはお子さんの高校合格のご褒美に、“人生初めての回らないカウンター寿司”を食べさせてほしいという依頼も受けたそうです。

「子供が元気よくお寿司を食べてくれたり、カウンター越しにお客様から直接美味しいとおっしゃっていただけると、やってよかったという気持ちになりますね」

一方、寿司を握り始めたことで、本業のお仕事にもいい影響が出てきたといいます。

「副業が出来たことで、思い切りがよくなりました。たとえ本業でヘマをしたとしても、副業があるからと気持ちがラクになったんです。これから、もっと年齢を重ねてもチャレンジは続けていきたいと思っています」

金融マンと寿司職人、小川さんの“二刀流”への挑戦は、新たな人生を切り開いています。

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