『坂の上の雲』見上げる足元は血塗られていた…“植民地戦争”で日本近代史を見る

歴史学は、善悪を争うものではなく、史実を積み上げていく学問だ。「自分の国をよく見せたい」、逆に「けなしたい」と意図が先にある主張は、歴史学ではない。学生時代から日本史学を学んできたRKB毎日放送の神戸金史解説委員長はそう考えている。ただ、史実をある視点で見た時に、くっきりとした時代像が浮かび上がることがある。世界史の「植民地戦争」の概念を近代史に取り入れて見えてくる歴史像を、4月8日のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で伝えた。

「坂の上の雲」を見つめ進んだ明治日本

神戸解説委員長の自室にある『坂の上の雲』全8巻

作家・司馬遼太郎さんは、国民的小説と言われる『坂の上の雲』で、日本をアジアで初めての近代国家にしようと奮闘する明治人たちを、こういう風に表現しています。

「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天に もし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう」
(文春文庫『坂の上の雲』8巻、298ページ)

とても美しい文章ですが、幕末の19世紀後半に開国した日本が直面した世界は、植民地を獲得して覇権を争う帝国主義の時代でした。アジアでは、中国はすでに列強に侵略されていました。日本は、幕末に不平等条約を押し付けられながらも、辛くも植民地化を免れ、遅れて帝国主義世界に加わりました。

日本がターゲットとしたのは、琉球と台湾、朝鮮でした。1875年(明治8年)には日本は朝鮮と軍事的に衝突します(江華島事件)。そして、武力を背景に朝鮮にとっての不平等条約(日朝修好条規)を結んでいきます。黒船でやってきたペリーと同じようなことを、日本はしているわけです。

▽台湾 台湾出兵(1874年、戦前は「征台の役」と呼んだ)、日清戦争後に清が日本へ割譲(1895年)

▽琉球 琉球王国を琉球藩に変更(1872年)、藩を廃して沖縄県設置(1879年、戦前は「琉球処分」と呼んだ)

司馬遼太郎が描いたのが近代日本の「表の顔」とすると、その裏には、植民地を踏み台にしていく冷徹な帝国主義国家の顔も持っていたわけです。

「植民地戦争」という西洋史の概念

「植民地戦争」の概念を説明する愼蒼宇教授

法政大学社会学部の愼蒼宇(シン・チャンウ)教授の話を聞く機会が3月にありました。「植民地戦争」という概念は、学生時代から日本史学を学んできた私にとって、目が覚める思いでした。

愼蒼宇教授:「近代の戦争」と言うと、欧米諸国が作り出した国際法に基づく主権国家同士の戦争というふうにイメージする方が多いと思います。近代の戦争は本当に「主権国家同士の戦争」ばかりだったんだろうか。全然そんなことはありません。今、国際連合に加盟している主権国家は200くらいあるんです。しかし19世紀末くらい、それから第1次世界大戦後の国際連盟の時代に、「主権国家」を名乗っていた国は、3分の1ぐらいしかなかったんです。3分の1ぐらいしかない国が、多くの地域を植民地化していたわけです。その地域の人たちの民族独立・自決に対する運動を潰しながら、「主権国家」を名乗っていた。つまり、帝国主義の時代だったということです。

愼蒼宇教授:帝国主義の時代には、列強はアジア・アフリカを植民地征服していきました。植民地支配では常に、現地の人々の抵抗が起こります。ですので、それに対する執ようで凄惨な軍事行動、そして現地の人々の抵抗・解放運動がずっと連続的に続いていきました。例えば、イギリスのインド支配。東インド会社がインド諸国の征服戦争を始めてから植民地化するのに約100年かかっています。つまり、インドの各諸勢力の長い抵抗があったのです。世界中で、こういうことがありました。今、世界史においては、植民地化、あるいは植民地支配下での列強による軍事的暴力と、現地の人々の抵抗を、「植民地戦争」と呼ぶようになってきています。世界史ではかなり定着してきている、と言っていいと思います。

世界史で定着している「植民地戦争」というワード、私が学生時代に学んだ日本史ではあまり聞いたことがありませんでした。

愼蒼宇(シン・チャンウ):法政大学社会学部教授。1970年生まれ。東北大学工学部卒、一橋大学大学院社会学研究科修了。専門は朝鮮近現代史、日朝関係史。

「植民地戦争」特徴は“非対称性”

帝国主義の時代は、どこでも、植民地の人たちを同じ人間としては見ていません。インドでのイギリス、アルジェリアのフランスと同様に、朝鮮の民衆による抵抗を、日本は徹底的に弾圧しました。こうした朝鮮の状況も、世界史の「植民地戦争」の概念で理解するべきだ、と愼教授は言うのです。

愼蒼宇教授:日本は、朝鮮を植民地化していく過程、あるいは植民地支配した後で、常に軍隊、憲兵、警察によって激しい軍事暴力を継続的に行使していました。これを捉える概念が、「朝鮮植民地戦争」ということになります。ところが日本近代史の中の戦争史の中には、これが戦争と位置づけられてきたことはほぼない、ということになります。

愼蒼宇教授:戦争と言っても、弾圧している側と抵抗している側の武力の差が、ものすごく大きいんですね。弾圧している側は、その都度その都度の軍事産業の最先端の武器を使っている。一方で抵抗している側は、武装解除させられながら戦っている。ですから、極端なことを言うと、徒手空拳に近い訳です。わかりやすいケースで言うと、イスラエルがパレスチナの人々にやっていることと、ほぼ近いと思っていい。つまり、弾圧している側と抵抗している側の間が、あまりに非対称的な関係だということです。「植民地戦争」を定義する場合には、「非対照的戦争」であると考えられるわけです。植民地化する側は最先端の武器を使っていて、実はほとんど被害が出ません。しかし、植民地化される側は、ジェノサイドを伴う激しい被害が出るわけです。

併合前から始まっていた「せん滅作戦」

朝鮮が日本に併合されるのは1910年ですが、その前に起きていたことを愼教授は丁寧に説明しています。まず、日清戦争とほぼ同じ時期に、朝鮮民衆が立ち上がりました。「甲午農民戦争」(1894~95年)と言います。これに日本がどう対処したのでしょうか。

愼蒼宇教授:キーワードで言うと、「せん滅作戦」。それから、関係のない民衆たちを村を単位とした「連座制」で巻き込んでいった。いくつか、ここに例を挙げます。甲午農民戦争の時に、当時参謀次長だった川上操六(兵站総監)が、大本営の秘密命令として、甲午農民軍に対して「ことごとく殺戮すべし」という方針を出しています(1894年10月27日付、仁川兵站監「陣中日誌」)。

愼蒼宇教授:例えば釜山で兵たんを管理していた司令官が、電報の中で「もし日本軍に対して攻撃をしてくる農民がいたら、責任のある村自体を焼き払ってしまえ」と言っています(1894年9月2日、大邱兵站監宛て)。

日清戦争の後、朝鮮が外交権を奪われ日本の保護国になるのは1905年。さらに1907年には、朝鮮の軍隊を強制的に解体したことで、元軍人が「義兵」を名乗り、反日闘争が激化しました。

愼蒼宇教授:義兵戦争の時に、長谷川好道・韓国駐箚軍司令官が、朝鮮の民衆に対して告知を出しています(1907年9月8日)。村の中から日本に対して蜂起をするような人間が出てきたら「その責を現犯の村邑に負わしめ」、つまりそういう人間が出たら村ごと全体に責任を負わせる、というのです。そして「その部落を挙げて厳重の処置」をする、という言い方をしているのです。何をするか。「村を焼き尽くす」ということです。

愼蒼宇教授:もう一つ、日本軍と戦って捕虜になった朝鮮人たちをどう扱うか。こんな史料がありました(1907年8月23日、小倉12師団歩兵14連隊「陣中日誌」)。長谷川好道司令官が小倉の連隊に対して出した令達の中で、「やむを得ずして生じた捕虜(成るべく捕虜とする以前に於いて適宜処分すべし)」。この意味、わかりますかね? 「殺せ」と言っているのです。「処分」とはそういうことです。実際この後に銃殺、これものすごくたくさん起こっているんですね。

ここで話しているのは、日本への併合の前のこと。日本に抵抗した独立派の人々を、「不逞鮮人」という差別用語で日本は呼びました。「せん滅」「連座制」。まだ植民地になる前からこういう態度を取っていて、1910年にとうとう日本に併合されていくわけです。「皇帝が同意して日本と合体したのだから、朝鮮は植民地ではない」という人がいますが、実態とは完全にずれています。

偶発的ではなかった大震災での虐殺

そして、最大の闘争となった「三・一独立運動」(1919年)では、死者数は正確には分かりませんが、2か月間で900人以上、統計によっては7500人が犠牲になったともされています。こうした植民地戦争が長く続いた中で、実際に手を下した日本の軍人、警官がいたわけですが、愼教授の調査によると、陸軍が全国18か所に置いていた師団すべてが朝鮮半島での軍務についています。最も多く派遣された師団は、東京の第1師団でした。兵役期間を終えて故郷に帰った軍人は、各地で在郷軍人会を結成します。「不逞鮮人」を軍で殺害した経験をすでに持つ民間人が、東京周辺にはたくさんいたのです。

愼蒼宇教授:関東大震災の朝鮮人虐殺(1923年)は、「朝鮮人が暴動を起こした」というデマが起こって、即時的に民衆と警察・軍隊が、まさにこの植民地戦争で行われていた「せん滅作戦」や、「連座制」のように関係ない人たちを数珠つなぎにして、虐殺が繰り広げられたんですね。震災下の混乱の中で突然民衆がパニックになって起こした、という解釈でのみ捉えられる出来事ではない。やはり、それまでの経験が何らかの作用をしている、と私は思います。

大震災後に戒厳令を敷いた陸軍首脳の経歴も愼教授は詳細に調べています。多くの幹部に朝鮮などでの植民地戦争での当事者がいました。とても説得力のある論理展開で、歴史学のすごみを感じました。

詳しく知りたい方は、愼蒼宇教授の著書『朝鮮植民地戦争 甲午農民戦争から関東大震災まで』を読むといいでしょう。研究書で少し高価ですが、かなり分かりやすく書かれていると思いました。

愼蒼宇・法政大学教授の著書『朝鮮植民地戦争』

「問いつづける民衆史」シリーズ1巻『朝鮮植民地戦争 甲午農民戦争から関東大震災まで』(有志舎、税抜き3600円)
朝鮮の人びとは甲午農民戦争以降、50年以上にわたって日本の侵略と植民地戦争にさらされ続けた。それは彼我の力が圧倒的に違う「非対称戦争」であるがゆえに凄惨なジェノサイドを伴い、その延長線上に関東大震災時の朝鮮人虐殺は起こったのである。平時のない植民地戦争のなかで虐殺体験や朝鮮民衆への憎悪・恐怖を内面化した日本軍人・兵士たちと、その暴力にさらされながらも抵抗し続けた朝鮮民衆の姿を通して、植民地近代論のように、抵抗の領域を歴史の表舞台から周辺化しようとする傾向を批判し、日本近代史に圧倒的に不在だった植民地戦争の実態を描き出す。

小説の『坂の上の雲』が好きな方は、歴史書の『朝鮮植民地戦争』も読むと、明治から昭和にかけての日本が立体的に見えてくるのではないかな、と思います。パレスチナとガザ、ウクライナとロシアの戦争も、また違った風に見えるかもしれません。

編集者註・このテキストでは放送で一部割愛した部分も補足して構成しました。

◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。学生時代は日本史学を専攻(社会思想史、ファシズム史など)。毎日新聞入社直後に雲仙噴火災害に遭遇。東京社会部勤務を経てRKBに転職。やまゆり園事件やヘイトスピーチを題材にしたドキュメンタリー映画『リリアンの揺りかご』(2024年)は各種プラットフォームでレンタル視聴可能。最新作『一緒に住んだら、もう家族~「子どもの村」の一軒家~』(2025年、ラジオ)はポッドキャストで無料公開中。

田畑竜介 Grooooow Up
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分
出演者:田畑竜介、橋本由紀、神戸金史
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※放送情報は変更となる場合があります。

大阪から東京まで56日間の“長距離ハイキング”、忘れられないおにぎりの味

先日、大阪・関西万博が開幕しました。今回は、東京と大阪を結ぶ「東海自然歩道」のお話です。

東海自然歩道の起点(東京・高尾山)(写真提供:トレイルブレイズ ハイキング研究所)

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本初の長距離自然歩道「東海自然歩道」を知っていますか? 郊外の自然を守るグリーンベルトとして、自然や歴史文化に親しみ、健康と安らぎを楽しむ場として、1969年(昭和44年)に当時の厚生省が構想を立ち上げました。東京の起点・高尾山から、神奈川、山梨、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、奈良、京都、そして大阪の起点・箕面まで、11都府県を結ぶ自然歩道が開通したのは、1974年(昭和49年)のことでした。

東海自然歩道のルート。赤色は主線、黄色は複線(資料提供:トレイルブレイズ ハイキング研究所)

自然と人を結ぶ「トレイル文化」を日本に根付かせようと活動しているのが「一般社団法人 トレイルブレイズ ハイキング研究所」、通称「トレ研」。所長で長距離ハイカーでもある長谷川晋さんにお話を伺いました。

「私たちはアメリカのトレイル文化を実際に歩き、体験し、学んできました。そこから着想を得て、日本の自然や地域性を楽しめる“長距離ハイキング”を広めたいと、2020年にこの組織を立ち上げました。歩く文化が根付き、育っていくことを目標に、活動を続けています」

昨年と今年、「トレ研」主催のイベント『つなぐ東海自然歩道』が、名古屋と大阪で開催され、会場には180人を超えるトレイルファンが集まりました。そのイベントに登壇し、実際に「東海自然歩道」を歩いたハイカーの山中二郎さんをご紹介します。

左:富士山を望み富士山を巡る、右:秋を感じながら三重県を歩く(写真提供:トレイルブレイズ ハイキング研究所)

愛知県在住の山中さんは42歳。神社やお寺、文化財の建築・修理に携わる宮大工として活躍されています。山中さんは、大学を卒業後、会社に就職しましたが、子どもの頃から手先が器用で、物づくりが好きだったことから、いつか靴職人や革細工など手仕事に関わる仕事をしたいと考えていました。

「そんなに物づくりが好きなら、宮大工になれや」と声をかけてくれたのは、宮大工をしていた山中さんの兄でした。26歳のとき、山中さんは滋賀県の工務店に転職しますが、宮大工の修行は時代によって建築の工法が異なるため、覚えることが多く、扱う道具も多く、いろいろと苦労したそうです。現在は独立し、宮大工一筋に歩んできた山中さんがなぜ自然歩道を歩くようになったのか、こんな話がありました。

伊豆大島で生まれ育った山中二郎さんは、自然の中のキャンプやハイキングが大好き。さらに手先が器用なこともあり、アメリカから取り寄せた生地や素材で、ハンモックや寝袋を自分で作っていました。

左:苔むしたトレイルを行く、右:トレイル上は人気も少なく静かだった(©山中二郎)

「アメリカでは、キャンプ用品を自分で作る人が多いんですよ。それをテストしながら、ロングトレイルを楽しんでいる人がいることを知って、長距離ハイキングに興味を持ちました」

2022年、山中さんはアメリカの「コロラド・トレイル」、750キロを踏破。トレイル全線を一気に歩く「スルーハイキング」の魅力に、すっかり魅せられます。帰国後、以前から興味を持っていた1200キロの「東海自然歩道」をスルーハイキングしてみようと、2024年10月6日、大阪の起点・箕面から、東京・高尾山を目指して歩き始めました。

「リュックには、ハンモックや寝袋、着替え、あとは食料を詰めました。道に迷わないようにスマホに地図アプリを入れて、モバイルバッテリーも携帯しました。ロングトレイルの魅力は、自分のペースで歩けること。ルートから外れて、寄り道をしてもいいんです。私は仕事柄、京都や奈良で寺社仏閣巡りを楽しみました。映画『男はつらいよ』の寅さんになった気分で、風の吹くまま、気の向くまま、そんな風来坊のような旅でしたね」

自然歩道を外れて街に出て、食料の補給をしたり、バッテリーを充電したり、たまに温泉につかり、名物料理を食べたり、何もしない日もあったり。それもロングトレイルの魅力のひとつだと、山中さんは言います。

左:キャンプ場でひと息、右:林の中にハンモックを吊るして野宿(写真提供:山中二郎)

静岡を歩いていたある日のこと。人里が近く、野宿できる場所が見つからないまま、気がつけばすっかり夜に……。ルートから3キロほど離れた場所にキャンプ場を見つけましたが、すでに夜7時を過ぎており、管理人さんは帰った後でした。看板に書かれていた電話番号にかけ、「東海自然歩道を歩いているんです」。そう伝えると、「年に一人か二人くらい、うちのキャンプ場に来るよ。いいから、泊まっていって」と、快く受け入れてくれました。

翌朝、キャンプ場に現れた管理人さんが、山中さんを車で東海自然歩道のルートまで送ってくれました。そして別れ際に「これ、食べて行ってよ」そう言って手渡してくれたのは、おにぎりでした。

「あのおにぎりの味は、一生忘れられませんね」

東京・高尾山に着いたのは11月30日……、56日かけて歩いた山中二郎さん。人のぬくもりも、道しるべになっていました。“現代版・東海道五十三次”とも呼ばれる「東海自然歩道」を、あなたも歩いてみませんか?

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