二宮和也、冠ラジオ番組の裏側を語る!?「これでもかっていうくらい打ち合わせして…」

嵐・二宮和也さんがDJを務める『BAY STORM』(bayfm78)。8月13日の放送では、リスナーから寄せられた質問をもとに、ラジオ番組の進行について語りました。(bayfm78『BAY STORM』2023年8月13日放送分)

『BAY STORM』は台本通り…?

二宮さんや嵐に関する質問に、二宮さん自らが答える「裏嵐」のコーナーに、このような質問メールが届きました。

「先日、『BAY STORM』を聴き終わってそのままラジオを流しておいたら、増田さんのラジオが始まり、聴いてみました。冒頭でしっかり台本通りの話をしていて、ラジオにも台本があるんだなと思いました。『BAY STORM』の進行は台本に沿って行われているのでしょうか? 板橋さんが製作していて気になります」

メール内の「増田さんのラジオ」とは、『BAY STORM』の後に放送されている『増田貴久 MASTER HITS』(毎週日曜22時30分~)のことで、二宮さんは「増田さんって方がやってるんですね」とボケて笑いを誘い、二宮さんの聞き手を務める番組ディレクター・板橋暢博さんに突っ込まれていました。2人は、なぜリスナーが台本通りの進行と分かったのかを疑問に感じつつ、二宮さんは「増田さんって方のラジオは、台本が送られてきてオンエアが始まるみたいなこと?」、「プラス課金で原稿が送られてくるのかな」と、板橋さんは「そんなことはやってないはずです」、「(増田さんが)"台本通り"って言ったのかもしれないですね」と推測しました。

『BAY STORM』の進行について、「これでもかっていうくらい打ち合わせして、台本作り上げてますもんね」、「アフレコもしてますもんね。『あそこの語尾が間違えてた』って言って…」など、二宮さんの冗談めかした回答に板橋さんが乗っかる形がしばらく続き、ツッコミ不在の状態に。通常とは異なる1曲構成だった8月6日放送分にも触れ、「あれも2週間くらい前から言ってましたもんね」、「オープニングでいっぱいしゃべろうみたいな。1曲にしますみたいな体でいこう」と振り返ります。

その後もアドリブ禁止や選曲について言及していき、二宮さんが「メールも僕が作るときもありますし…」と口にしたところで、板橋さんから「それ、ダメです(笑)」とストップがかかりました。それでも二宮さんの冗談は止まらず、「作り上げられた中で、実はこんなにゆるくやってたんだみたいな。相当台本も何稿も書いてますもんね。それが伝わってない感じでやれてるのが嬉しくもありますよね」と話しました。

『BAY STORM』の進行を3分お試しで今すぐ聴く↓

即興コントとも言えるやりとりが一段落したところで、2人は一般的な番組進行について触れていきます。最終的には各番組で異なるものの、レギュラー番組や帯番組などは定型化されていることや、出演者たちによって台本の内容も変わることが挙げられました。『BAY STORM』では「ここは必ずこの文言でいかなければいけない」といった読み原稿は無いとのことで、二宮さんは「たまに渋滞情報とか呼びかけたら…」と再び冗談を口にして、板橋さんの笑いを誘いました。

「一般的な番組進行」を3分お試しで今すぐ聴く↓

BAY STORM
放送局:BAYFM78
放送日時:毎週日曜 22時00分~22時30分
出演者:嵐 (二宮和也)
番組ホームページ

Twitterハッシュタグは「#ベイスト」

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※放送情報は変更となる場合があります。

この記事を書いた人

radiko編集部

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戦争を知らない世代へ平和の尊さを説く─東京大空襲を生き延びた女性が語る空襲体験

戦後81年が経ち、太平洋戦争を体験した方は、本当に少なくなりました。当時、空襲を体験した小学生たちも、いまや90歳前後です。今回は、戦争の悲惨さ、平和の尊さを語り継ぐ「空襲体験者」のお話です。

東京大空襲の写真を解説する二瓶治代さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

B29による空襲は、昭和19年6月16日、北九州・八幡製鉄所から始まり、翌年の終戦まで、全国200以上の都市で続きました。中でも、昭和20年3月10日の東京大空襲は、およそ300機のB29から32万発ともいわれる焼夷弾が投下され、下町一帯は火の海に……わずか2時間半の空襲で、およそ10万人もの命が奪われ、「世界史上最大の空襲」ともいわれています。この東京大空襲の惨状を今に伝えているのが、東京都江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。

江東区北砂一丁目にある「東京大空襲・戦災資料センター」

もともとは、東京都が「平和祈念館」の建設を進めていました。ところが、財政難から計画は凍結されてしまいます。「それではいけない」と、民間による建設の動きが始まり、4000名を超える人たちから、1億円を超える募金が寄せられました。そして2002年、民立民営の平和博物館、「東京大空襲・戦災資料センター」が開館しました。

焼夷弾のレプリカ。その構造や威力もわかりやすく展示

館内では、空襲の悲惨さを伝える写真や映像、絵画、地図、焼夷弾などが展示され、講演会やシンポジウム、特別展などが行われています。開館当時は、20人ほどの「空襲体験者」が戦争の悲惨さを伝えていました。しかし今、その数は少なくなりました。その中の一人が、二瓶治代さんです。二瓶さんの空襲体験の一部をご紹介します。

~・~・~・~

昭和20年3月10日、私は8歳で、家は亀戸駅の近くにありました。その夜、父が「今夜はいつもと違う、起きろ!」と叫んだので、私は飛び起きました。外に出ると、砂町方面が真っ赤に見えました。家族で防空壕に避難しましたが、やがて人々の叫び声が聞こえてきました。父が「ここにいたら、蒸し焼きになるぞ。防空壕から出ろ!」と言いました。私たちは線路の土手に登りました。そこから見た下町一帯は火の海でした。

燃え盛る炎がゴーッと音を立てて家々をのみ込み、人々は燃えながら走っていました。背中に背負った赤ん坊が燃え、手を引かれた子どもが燃え、転んだ子どもは、その場で火の塊になって燃え尽きていきました。やがて、土手にも火が迫ってきたので、私たちは炎が渦巻く火の海の中を、亀戸駅方面へ逃げました。その途中、被っていた防空頭巾が燃え出し、「頭巾をとれ!」と父が叫び、私はあわてて紐を解こうとしました。その時、父とつないでいた手が離れ、強い風に煽られ、私は炎の中に吹き飛ばされてしまったのです。

気がつくと、家族とはぐれて、一人で逃げ回りました。うずくまっている人が、緑色の炎をあげて燃えているのを見ました。馬が燃えながら走っているのを見ました。どこからか、「こんなことで死んでたまるか。みんな生きるんだ!」と叫ぶ男の人の声を聞きました。

私は動けず、その場にうずくまっていると、意識が遠のいていきました。明け方、私は重なり合った人たちの一番下から、父に引きずり出されました。私の上に重なっていた人たちは、真っ黒な炭になって亡くなっていました。この日、私は、生きたまま焼き殺された多くの死者たちに、命を助けていただいたのだと思っています。

~・~・~・~

二瓶さんが「東京大空襲・戦災資料センター」を初めて訪れたのは、2002年、開館して間もない夏の終わりでした。その時、センターの担当者から「当時の体験を語ってほしい」と頼まれます。「こんな私の話なんて……」と断ろうとしますが、岩手県から修学旅行でやってくる中学生50人のために話してほしいとお願いされます。

戦時中に使われていた防火用水

「東京大空襲のことは、我が子にも話さなかった」という二瓶さん。悩んだ末に、当日を迎えます。用意した原稿に目を落としたまま、20分間、顔を上げられず、空襲体験を語り終えました。「そっと顔を上げたんです。すると50人の生徒さんが全員、じっと私を見つめていたんです。身を乗り出して聞いてくれていた生徒さんもいて、ああ、戦争を知らない子どもたちに勇気をもらった……と涙が溢れました」これがきっかけとなり、二瓶さんは、今も空襲体験を語り続けています。

地図の丸印は東京大空襲の直後、仮埋葬が行われた場所

「戦争で一番の犠牲になるのは、いつの時代も、幼い子どもたちです」二瓶さんの言葉が、戦争を知らない私たちに平和の尊さを問いかけています。

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