【受賞】戦後の沖縄でラジオが必要だった理由―父・川平朝清から息子・ジョン・カビラへ語り継ぐ

J-WAVEが2019年6月23日、沖縄慰霊の日にオンエアした「GENERATION TO GENERATION~STORIES OF OKINAWA~」が、第57回 ギャラクシー賞 ラジオ部門の大賞を受賞しました。戦争を経験し、終戦後に沖縄で放送に携わった川平朝清さんは、息子であるJ-WAVEナビゲーター・ジョン・カビラに、放送の役目を語ります。(J-WAVE NEWS編集部 2020年7月2日/この記事の初掲載は2019年6月26日)


■18万8,000人を超える人たちが亡くなった沖縄戦

J-WAVEがいま注目するさまざまなトピックをお届けする日曜夜の番組『J-WAVE SELECTION』。6月23日(日)のオンエアでは、「GENERATION TO GENERATION~STORIES OF OKINAWA~」と題して、ジョン・カビラがナビゲート。カビラの父で現在91歳の川平朝清さんは、戦争を経験し、終戦後に沖縄で放送に携わりました。当時体験し感じたことを、息子カビラが訊きました。

オンエア日の6月23日は「沖縄慰霊の日」でした。昭和20年(1945年)4月1日、アメリカ軍は慶良間諸島に続き、沖縄本島に上陸。日本軍との間で激しい戦闘が行われました。亡くなった方の数は、アメリカ側で1万2,500人を超えます。そして、日本側は軍に属さない民間人も含め18万8,000人を超える人たちが亡くなったとみられています。このうち、およそ半数は非戦闘員の一般市民でした。

昭和20年6月23日、日本陸軍の牛島満司令官が自決。自ら命を絶ち、日本軍の組織的な戦いが終わりました。しかし、沖縄など南西諸島の日本軍が全面降伏に調印したのは9月7日。つまり、6月23日の後にも、戦争で亡くなった方が多くいました。「沖縄慰霊の日」は、犠牲になった方々に祈りを捧げる日です。

戦後、沖縄は昭和47年(1972年)の本土復帰までアメリカ軍の直接統治下に置かれ、日本の政治、経済、法制度、さらに文化面から切り離された状態に。そんななか、沖縄でラジオ放送の立ち上げ、そしてその後、テレビも含む沖縄の放送に深く関わったのが、カビラの父である川平朝清さんです。

激しい戦いの末、焼け野原と化した沖縄。アメリカ軍の統治下に置かれた沖縄……そんな沖縄でのラジオ放送はどのように始まったのか。そして、どんな思いを込めて、どんなことを伝えてきたのでしょうか。


■台湾で大日本帝国陸軍二等兵に

まずは太平洋戦争末期の昭和20年。4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸し激しい戦闘が行われていた頃、川平さんは台湾にいました。

カビラ:沖縄戦は体験していないんですよね?
川平:そうですね。私は台湾生まれ、台湾育ちですから、当時は台北の高等学校にいました。医学系に進むべく学んでいた17歳のときに徴兵され、台湾に展開していた大日本帝国陸軍二等兵になっていました。
カビラ: 8月15日、終戦の日が来ます。玉音放送は聞けたんですか。
川平:聞けません。私たちの隊長が山から下ったところの中隊本部で玉音放送を聞いて、山に上がってきて「戦争は負けたぞ」と。それを聞いたときにいよいよ我々は敗戦国になったなと思いました。
カビラ:そこから、焦土と化した沖縄に戻るイメージはすぐ湧きましたか?
川平:私は湧きませんでした。台湾生まれ台湾育ちですから、沖縄に戻るという気持ちがなかったんです。だけども、日々、両親の沖縄に対する思いや、沖縄に大勢いる親戚がどうなっているかについて、いろいろ聞かされていました。

その時点で川平さんは、沖縄がアメリカ軍の強力な武器や弾薬の普及によって、壊滅的な状態だと聞かされていました。

川平:中には「沖縄がどれくらい持つか」と話す人もいました。だから元々、沖縄は捨て石だったんですね。アメリカ軍が本土上陸の前にどれくらい持ちこたえるかを知るために、沖縄の一般住民を巻き込んで酷い戦争になったと思います。


■戦い破れて山河も残らなかった

昭和20年、日本の無条件降伏により太平洋戦争が終結。台湾に展開していた大日本帝国陸軍二等兵だった川平さんは、初めて沖縄の地を踏みました。

川平:沖縄は別世界でしたね。幼い頃からかねがね自然など沖縄の良さ、特に首里城は母から「あそこは木々が豊かに茂っていて、実にきれいなところ」という話ばかり聞いていました。母が引き揚げ船で沖縄の島に着いたとき、船から島を見て「戦破れて山河も残らなかったわね」と言った言葉がいまでも忘れられません。
カビラ:アメリカ軍の艦砲射撃による攻撃があったんですね。
川平:一坪に何発も落ちたほどの艦砲射撃や空爆だったんです。しかも、アメリカ軍にあるのは焦土作戦でした。沖縄には日本軍の洞窟があり、そこにこもっている人たちをアメリカ軍は火炎放射器で焼くわけです。その中には住民も一緒でした。焦土作戦で家という家は全て焼き払われている状態を見て、母は引き上げの3カ月前に台湾で亡くなっていた父のことを考え、「お父さんにはこの状態を見せたくなかった」と言った。それくらい、沖縄はひどい状態でした。


■沖縄には娯楽と情報と教育の面でラジオが必要

川平さんが焼け野原と化した沖縄に引き上げてきたのは1946年。アメリカ軍による直接統治が行われていた沖縄で仕事に就きます。

川平:最初に務めたのは陳列所ほどの規模の東恩納博物館でした。焼け跡からさまざまな日本の沖縄の文化財を集めて陳列して、沖縄にもちゃんとした文化があったということをアメリカ軍の将兵たちに示す場所で、通訳・翻訳をしていました。当時、私は沖縄の文化再興というか、何か自分にもできることがあるんじゃないか。そういう気持ちが強かったですね。

一年ほど東恩納博物館で働いた川平さんは、兄から「ラジオをやるがアナウンサーがいない。君は台北時代に児童放送劇団に属していた経験もあるから、医学部に行くチャンスが来るまでしばらくラジオ局でアナウンサーをやらないか」と誘われました。

川平:そして、1949年にアメリカ軍政府が始めたラジオの日本語放送局が開設し、アナウンサーになりました。
カビラ:戦火の傷跡残る沖縄で、なぜラジオが必要だったのですか?
川平:台湾から引き上げてきた兄は、戦後の沖縄には人々のために娯楽と情報と教育の面で一番ラジオがいい、と考えたからです。そこでラジオ局の開局を進言したわけです。当時の副知事には「ラジオなんて誇大妄想もいい加減にしろ。電気もない、受信機もない、そんなところで沖縄人がラジオ局をやると言ったらアメリカ人に笑われるぞ」と言われました。しかし兄はひるまず、今度はアメリカ軍政府にこの案を持っていきました。そうしたら、アメリカ軍政府に「放送をやれる沖縄人がいるのか」と言われ、「私は台湾でラジオ局を経験している。技術者もいる」と返答すると、「じゃあ、軍政府(の予算)でラジオ局をやる」と言われました。

そこで開局したラジオ局が「AKAR 琉球の声放送」でした。

カビラ:このラジオ局開局で最初にどんな曲を流したんですか。
川平:『かぎやで風』という沖縄の古典音楽で、沖縄のお祝いで必ず演奏する曲です。「今日のうれしさは何に例えよう、つぼんでいる花が露を受けて、パッと咲いたようだ」というような意味のこの歌を流しましたね。


■放送は一般の人々のための関心と利益、福祉のために行われるべき

AKARの開局に携わった川平さんは、その後東京のNHKでアナウンサーの養成研修に参加。そして、アメリカ留学の機会が与えられ、ミシガン州立大学でラジオ・テレビ・ドラマを専攻します。帰国後は沖縄にテレビ局を作りたい、と思っていました。

カビラ:留学を志すときに、テレビ局の発想はあったんですか?
川平:ありました。当時、アメリカで教育や情報、娯楽の番組が始まる頃でしたから、これこそ沖縄に活かされるんじゃないかと、そういう気持ちはありました。
カビラ:ミシガン州立大学で学んだ最も大きなことは何でしたか?
川平:アメリカの通信法の放送に関して、「放送は一般の人々のための関心と利益、そして福祉のために行われるべきだ」という言葉に強烈な印象を持ちました。これこそ沖縄に必要なメディアだと確信を得ました。


■自己規制があるなかでも伝えたかったこと

1957年秋、川平さんはミシガン州立大学大学院から沖縄に戻り、「RBC 琉球放送」に迎えられます。まだ日本に返還される前の沖縄です。ちなみに留学中に出会ったアメリカ人女性との間にカビラさんが生まれたのは1958年でした。

カビラ:ベトナム戦争が始まった当時、どういう思いで伝えていたんですか?
川平:番組には自己規制がありました。それはやむを得ない。それでも出すべき情報は番組で出す。「これはちょっと(彼らの)気に障るな」という情報も出しました。そのときのプログラムディレクターが柔和な人だけど骨のある人で、言うべきことは言う。例えばアメリカ軍の犯罪に対してニュースを出すときに、「その犯罪の取り扱いに沖縄の警察が及ばないことはいかがなものか。沖縄で起こった犯罪については、それなりに沖縄の警察も尊重すべきではないか」というような意味合いのこともやりました。

1959年に沖縄にテレビ局「OTV 沖縄テレビ放送」が、1960年には「RBC 琉球放送」が開局。その後、川平さんの働きかけもあり、沖縄全土に公共放送を伝えられる沖縄放送協会が1967年に誕生しました。

その5年後の1972年に沖縄はアメリカ軍の統治から本土に復帰。沖縄放送協会はNHKにその業務を引き継ぎ、復帰と共に東京に呼ばれた川平さんも、NHKで経営主幹として国際協力にまつわる仕事を続けました。


■父から新たなバトンを渡されたような気がした

戦前戦後を生き抜き、生き残ったからこそ沖縄の人々に放送というかたちで尽くしたい。そう思った川平さんがその放送局経営の術を学んだ地が、以前の敵国アメリカでした。そして、そのアメリカで妻と出会う。まさに川平さんの人生は、沖縄と日本、アメリカの戦後史の一遍を象徴するものではないでしょうか。

60年近く放送に携わってきた川平さんが思う、いまの放送の役割とは何でしょうか。

川平:やっぱりそれは、原点に戻ること。メディアは一般の人々のための関心と利益、そして福祉のために行われるべきです。そのためにメディアは使われるべきだと思います。

カビラはこの言葉を聞いて、「父から新たなバトンを渡されたような気がした」と、その思いを語りました。

【番組情報】 番組名:『J-WAVE SELECTION』
放送日時:毎週日曜 22時-22時54分
オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/jwaveplus/

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江口のりこ×中条あやみ×笑福亭鶴瓶 大いに泣いて笑って元気になれる人生賛歌!『あまろっく』

ニッポン放送「ひろたみゆ紀のサンデー早起き有楽町」(日曜朝5時~)で、おススメの最新映画をご紹介しているコーナー『サンデー早起キネマ』。4月14日は、家族の絆と愛を描いた3本をご紹介しました。

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『あまろっく』  (c)2024 映画「あまろっく」 製作委員会

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そんなある日、65歳の父が突然「お父ちゃんは再婚します」と言いだし、なんと20歳の早希を連れてきます。役所で働く早希は、孤独な幼少期を過ごし、誰よりも“家族だんらん”を夢見ていたのです。ずっと年下の“継母”の登場に戸惑う優子は、共同生活を受け入れることができず、三人の日々は衝突と騒動の連続でした。

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『あまろっく』  (c)2024 映画「あまろっく」 製作委員会

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『あまろっく』  (c)2024 映画「あまろっく」 製作委員会

とても優秀なのに居場所がなくなる優子役は、江口のりこさん。愛想がなくて忖度もできないから、煙たがられて孤立してしまう……でも実は優しくて可愛い!という役が本当にピッタリでした。

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『あまろっく』  (c)2024 映画「あまろっく」 製作委員会

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大いに泣いて笑って元気になれる人生賛歌!この春あなたも元気をもらいに映画館に出かけませんか?

『あまろっく』  (c)2024 映画「あまろっく」 製作委員会

『あまろっく』
4月19日(金)新宿ピカデリー他 全国公開

江口のりこ 中条あやみ
松尾諭 中村ゆり 中林大樹 駿河太郎 紅壱子 久保田磨希 浜村淳
後野夏陽 朝田淳弥 高畑淳子 (特別出演) 佐川満男
笑福亭鶴瓶
監督・原案・企画:中村和宏
2024年 日本 /119 分 カラー シネスコ /5.1ch
配給:ハピネットファントム・スタジオ

(c)2024 映画「あまろっく」 製作委員会

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