岡林信康がぶっ壊そうとした「フォークの神」のレッテル『J-POP LEGEND FROUM』

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく FM COCOLO 『J-POP LEGEND FORUM』。2021年3月の特集は「岡林信康」。


■第3回(3/15放送)
コロンビア・ビクター編、1975年のアルバム『うつし絵』から、1981年のアルバム「GRAFFITI」までの時代


わずか6年で発売したアルバムは6枚、演歌からポップス、洋楽、ニューウェーブと、いずれもフォークの神様のレッテルから逃れたい、ぶっ壊したいということが原動力になって、フォークじゃない音楽に真正面から向かっていった。でも、ファンの反応は芳しくなかったという時代。

1975年からで、CBSソニーで松本隆プロデュースのアルバム「金色のライオン」「誰ぞこの子に愛の手を」の2枚を出して、その年にレコード会社を日本コロンビアに移籍。なぜコロンビアだったのか?

「村の生活の中であれほど嫌いだった演歌が、なぜか心地よく聞こえるようになってきてね。」

京都の農村に移住して畑仕事をやるようになり、日々の生活の中で音楽の好みが変わって演歌に惹かれ始めた。
その頃に美空ひばりさんとの運命的な出会いを果たし、演歌をやるのなら、ひばりさんと同じコロンビアがいいということでの移籍でした。

「『月の夜汽車』という曲ができて。それをイラストレーターの黒田征太郎に送っておいたら、彼の手から周りまわって美空ひばりさんに届いて、彼女が歌いたいと言って...。それでバタバタと10曲ほどできて。ひばりさんが歌ってくれるのは嬉しいし、俺もアルバムを出そうと思ったんだけど、これは非難されるぞと思って(笑)。」


※プレイリスト↓

美空ひばりさんもシングルにした
■M1. 月の夜汽車

村の寄り合いをそのまま歌にした
■M2. 橋 ~"実録"仁義なき寄合い

娘さんの名前でもある曲
■M3. みのり

■M4. メイキャップお嬢さん

■M5. Good-bye My Darling

■M6. 山辺に向いて

■M7. DORAKU LADY

「演歌をやったことで俺の中にはタブーがなくなったよね。弾き語りもやるし、アメリカン・ポップスだってラジオにかじりついて聴いてたんだから、その影響を受けてないわけはない。そういうことをやるには、フォークの神様というレッテルをぶっ壊したいというのもあったと思うよ。俺をフォークの神様だと思っている人が眉を潜めるようなことを敢えてやろうという意地悪な気持ちもあったりして。長い間、自分はフォークの神様というレッテルを貼られ、フォークという狭いところに押し込められたことを自分の悲劇だと思ってたけど、逆だと思うんよね。フォークの神様というレッテルをぶっ壊してやろうと思って、色々なことをやれたし、それが原動力だったかも分からんから。ここまで前向きにやってこれたのは、フォークの神様って言われてたからかも分からんよな。今は感謝して喜んでますけどね。」

この時代の彼に関わった人たちは、松本隆、泉谷しげる、黒田征太郎、加藤和彦、ムーンライダース・・・と錚々たる顔ぶれです。


※第3回(3/15放送)をお聴き逃しの方は⇒【”読む” J-POP LEGEND FORUM】Rolling Stone Japan

 

■第4回(3/22放送)
東芝EMI編、1990年のアルバム「ベア・ナックル・ミュージック」から、1993年のライブアルバム「岡蒸気」までの「エンヤトット」へと移行していく時代

「ロンドンに行ったりニューヨークに行ったり、その果てにアルバムも出し尽くしたようなところもあって。子供の頃、自分の家は牧師の家庭ですから賛美歌がメインになって、聴くのは洋楽ばかりで。うちの親も東映のチャンバラ映画を見に行くといい顔しないけど、外映に行くというと映画代くれるような妙な家庭だったんですよ。通ってる学校も田舎のミッションスクールだったり、洋楽一辺倒の環境だったんだけど、ある時に近くで盆踊りがあったんだよね。小学校の3年生の時か。その時に初めて盆踊りを踊って…… 身体を揺らしているうちにある種のトランス状態に入ったのね。あのトランス状態っていうのがずっと忘れられなくて、牧師家庭の息子としては一時の気の迷いとして深く心に封印して。

ただ、ロンドン行ったり『ストーム』を作ったあたりから、あのノリで陶酔するというのは本来の日本のロックなんじゃねえのかなと、ふと思って。特に海外に行った時に、現地の客に向けて俺は日本のミュージシャンで俺のロックを聴いてくれと言った時に、ボブ・ディランの真似事をやるより、ここで盆踊りのリズムをロックにしたら面白いんちゃうかなと思って。それからやね、日本のロックというかノリはなんなんだろう? とこだわり始めたのは。」

民謡や盆踊りで使っているリズムでロックのエモーションをどう表現するか?
一つの答えになったのが「ペンノレ」。ペンノレというのは韓国の民謡で、岡林信康自身も色々な所に行ったり、民謡のレコードを聴きながら、韓国の打楽器グループ「サムルノリ」と出会った。そして、こういうリズムが生まれた。これが1990年に出た『ベア・ナックル・ミュージック』の一曲目「ペンノレ」。

「サムルノリに対向するええ言葉ないかなっていうのと、日本のリズムっていう言い方もおかしいし。エンヤトットミュージックって言ったほうがなんとなく面白いかなって。」

※プレイリストは↓

■M1. 江州音頭物語

■M2. ペンノレ

■M3. サムルノリ…熱い風… 

■M4. '84 冬

岡林信康をずっと撮っていたカメラマンが亡くなった時の歌
■M5. 君に捧げる LOVE SONG '90

尾崎豊について歌った曲
■M6. ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど 
 

田家:「ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど」は尾崎豊のことを歌っているわけですが、彼のことはどう思われていますか?

岡林:俺はあの時、新宿ゴールデン街で飲んだくれて。あのまま東京にいたら尾崎豊になってたと思うんだよね。過疎の村で田植え稲刈りの生活を始めたことで生き延びることができたというか。だから、新宿ゴールデン街で飲みつぶれて死に絶えた岡林を、ふと彼に重ねたのよね。俺はそこから生き続けることができてよかったなという想いを歌にした。

田家:尾崎さんも亡くなられた当時26歳で、岡林さんが田舎に引っ込んだのも26歳ですね。

岡林:だから、ゴールデン街で行き倒れになった岡林信康は尾崎豊ですよ。それが美化されて、尾崎本人はそれで楽しかったのかな? って思うね。俺は生き続けられてよかったなって。


レッテルを貼られて祭り上げられて虚像と戦わざるを得なかった最初のミュージシャン岡林信康が、東京を離れて田舎に引っ込んだのは26歳。

青春のカリスマ、反抗の旗手という存在になってしまった尾崎豊が、そのまま26歳で亡くなった。

その時に我々が感じたのとは違う衝撃と共感と色々な感慨があったんだなというのが、この歌に表れている。


※第4回(3/22放送)をお聴き逃しの方は⇒【”読む” J-POP LEGEND FORUM】Rolling Stone Japan


■第5回(3/29放送)
ラストの今回は、2000年代の「岡林信康」。2018年に発表された多彩なゲスト迎えてのリレコーディング・アルバム「「森羅十二象」と最新作「復活の朝」を通じて、50年を超えるキャリアを総括する時代に入った「岡林信康」

※プレイリストはこちら↓

■M1. さよならひとつ

■M2. 今日をこえて

■M3. チューリップのアップリケ

■M4. 山谷ブルース

■M5. 冬色の調べ

■M6. 復活の朝 

※タイムフリーでお楽しみください(4/5まで)
 

■5回の放送ではお伝えしきれなかったインタビューと共に、『岡林信康・復活の朝 スペシャル』を4月11日(日)18:00〜19:00に放送します。
ぜひお聴きください!!

 

 

J-POP LEGEND FORUM 「岡林信康」特集
放送局:FM COCOLO
放送日時:毎週月曜 21時00分~22時00分
出演者:DJ:田家秀樹、ゲスト:岡林信康
番組ホームページ

※該当回の聴取期間は終了しました。