【創業110年超】伝統と革新が融合する宮田織物…世界を魅了する半纏
福岡県筑後市にある宮田織物は、1912(大正2)年創業の老舗織物会社です。日本の伝統が息づく半纏は、その温かさと美しさで多くの人々を魅了しています。RKBラジオのキャスタードライバー・スナッピーが宮田織物を訪れ、『Toi toi toi』でその魅力をリポートしました。(報告・スナッピー長谷恵)
熟練の技が光る、唯一無二の半纏
宮田織物では、生地のデザインから織り、縫製、綿入れまで、全ての工程を自社で一貫して行っています。熟練の職人たちが丁寧に手作業で綿を入れることで、ふっくらと温かい半纏が生まれます。
3000種類を超えるデザイン
半纏のタグには、一つ一つデザインの名前が記されています。これまでに手がけたデザインは、なんと3000種類以上。長年培ってきた技術と経験が、多彩なデザインを生み出しています。
海外展開も視野に
日本の半纏を世界に広めるため、宮田織物は海外展開にも力を入れています。クラウドファンディングで資金を調達し、海外のアーティストが足袋を愛用していることから、洋服の上から着ることができるポンチョ型の半纏を「日本製ジャケット」として販売しています。
宮田織物は、伝統を守りながらも、常に新しいことに挑戦しています。
九州大学との共同開発
九州大学芸術工学部の学生たちと共同で、手首足首ウォーマー「POKKA(ぽっか)」を開発しました。肌触りが良く、軽くて温かいのが特徴です。ハンドメイドキットとして販売されており、宮田織物の素材の良さを体感できます。半纏の製造過程で出る綿や布を再利用し、環境にも配慮した商品です。
現在も、新しい生地作りに取り組んでおり、常に進化を続けています。宮田織物の半纏は、日本の伝統技術と職人の技、そして新しい発想が融合した、まさに唯一無二の逸品です。
※放送情報は変更となる場合があります。
イラン問題から探る、シーア派とスンニ派の違い
ニュースキャスターの長野智子がパーソナリティを務める「長野智子アップデート」(文化放送・月曜日15時~17時、火~金曜日15時~17時35分)、3月11日の放送に毎日新聞論説委員でノンフィクション作家の小倉孝保が出演した。イランの新最高指導者モジタバ・ハメネイ師がイスラム教シーア派の聖地・マシャドで生まれであることに関連し、イラン問題、シーア派とスンニ派の違いを語った。
鈴木敏夫(文化放送解説委員)「イランの最高指導者を選出する権限を持つ『専門家会議』は、殺害されたハメネイ氏の後継に、その次男であるモジタバ師を選出した、と発表しました。イラン革命防衛隊もモジタバ師への忠誠を表明しています。そのモジタバ師、シーア派の聖地であるマシャドという街で生まれた、という情報も伝わっています」
長野智子「シーア派について改めて教えてください」
小倉孝保「僕は2000年から2005年までカイロを拠点に、モロッコからイランまでカバーして。イランは大きな国で、およそ5年弱の間に10回ぐらいは取材し、長期滞在していました。エジプトはスンニ派の国なんです。イスラム教徒が多いけど、シーア派の人はほぼいないと思います。でもイランに出張すると8割がたシーア派の人たちです。スンニ派とシーア派の人たちって、同じイスラム教なのにこんなに違うのか、と感じさせられます」
鈴木「どういう点で?」
小倉「なぜシーア派とスンニ派がいるのか、ということから言うと、預言者ムハンマドがイスラムをつくって、亡くなったあとに後継者争いになる。ムハンマドの教義をよく理解した人間で、あとを継いでいこう、と考えたのがスンニ派。これがいまの世界の多数派です。シーア派はどういう人かというと、ムハンマドの家族、血を重視して、その血を継いでいく考え方を重視した人たち」
長野「はい」
小倉「ムハンマドの娘婿でいとこでもあるアリという人が中心となって、その人の子どもたちや子供のきょうだいなどで継いでいったものがシーア派なんです。一方でスンニ派が血は関係ない、ムハンマドの考えをいかに理解しているか、ということを重視して。自分たちが後継者だ、と。いまスンニ派、シーア派と呼ばれている人たちの跡目争いが対立を生んだ」
長野「はい」
小倉「そこで7世紀初めぐらいからだと思うけど、かなりの戦争状態になる。イランを見るとき『あれ、イラン人ってこういうマインドがあるんだ』と思わされた出来事がいくつかあって。カルバラ、というシーア派の聖地がイラクにある。カルバラで、ムハンマドの後継者とされていたアリの息子、フサインの軍がウマイヤ朝、いまのスンニ派につながる朝の軍とぶつかって虐殺されるんです」
長野「フサインさんがね」
小倉「フサインのぶつかった場所、遺体の埋められている場所がカルバラで。シーア派の人にとっては非常に思い入れのある、聖地になっているんです。簡単に虐殺というけど、フサインは(軍に)70人ぐらいしかいなかった。それで4000人の軍に挑んで、女性と子供以外は全員、殺されたといわれています。フサインは体をいったんダマスカスに送られて。殺された、というのを確認してカルバラに戻されて、埋葬されたといわれます」
長野「うん……」
小倉「カルバラの悲劇、カルバラの戦いといわれます。西暦680年のことですが、いまもいろいろなところでイラン人がこの話をするんです。するというのは、雑談ではなく、モスクに行ったときのモスクのイスラムの聖職者(法学者)たちが、この話をもう日本人でいえば『平家物語』ってこうだったのかな、というぐらい滔々と上手に物語にしていく。そこで聴いている人が、ものすごく真剣なわけです」