財津和夫、TULIPはなぜ最初ビートルズのようなバンド編成にしなかったのか?の謎に答える

TULIP・財津和夫が、時にはTULIP結成時のエピソードに触れるRKBラジオ『財津和夫 虹の向こう側』。9月28日の放送では、まだ地元福岡で活動していた頃のチューリップと海援隊に関する甲斐よしひろの証言に関して、その真偽に正直に答えます。

海援隊からTULIPにメンバーを引き抜いた財津

リスナーから、ラジオ番組で甲斐よしひろが話していたという「チューリップと海援隊のエピソード」を報告するメッセージが届きました。まずはその大筋です。
「僕(甲斐)が高校生時代、海援隊はハードロックバンド、チューリップはフォークグループだったが、財津さんはどうしてもポップバンドが作りたくて、海援隊のドラム・上田雅利さんを引き抜いた。ドラマーを引き抜かれた海援隊は代わりが見つけられず、3人でフォークグループになった」

下田「歴史的(経緯)に間違いはないですか」
財津「その通りです」
下田「海援隊は、子供の頃からテレビラジオで聞き親しんでいましたけど、ハードロックバンドと聞いて『えっ』と思っちゃった。そんなイメージじゃない」
財津「やっぱり、知らない人が多いですね。『グランド・ファンク・レイルロード』っていうバンド、知らないと思いますけどもハードロックの典型的なバンドだったんです。そのボーカリストがものすごく髪を伸ばしてて、金八先生みたい。だから(武田鉄矢は)金八先生のために髪を伸ばしてた訳じゃなくて、ハードロックやってた頃の髪のまま、武田さんが金八先生を演じたんです」
下田「へえー」

財津「(『グランド・ファンク・レイルロード』のボーカルだったマーク・ファーナーは)その長い髪を揺らしながら、上半身裸でハードロックバンドをやってました。同じように、海援隊の武田さんもステージの上で走り回ったり、バク転したりとか、すごいアクティブなステージをやってたんですよ。すごいハードバンドだなって思ってたんですけど、なんで急に『贈る言葉』になっちゃったのかがちょっとわかんない」
下田「『あんたが大将』とか」
財津「ちょっと皮肉っぽく歌ってるわけじゃないですか、だから結構ハードなロックなんですね」
下田「バラードもありましたね、『母に捧げるバラード』」
財津「いい歌いっぱいあります」

下田「(もしも)何かのきっかけで、海援隊は本当にハードロックバンドのまま、チューリップはフォークグループっぽくっていうグループになっていたとしたら、すごく興味深い」
財津「ははー、もしも、という事ですね」
下田「パラレルワールドみたいなもう一つの世界がどこかにあって」
財津「行きたいなー、4次元の世界で。どうなったんでしょうね…という事は、上田はうち(TULIP)に来てないってことかな。もしそうだとしたら、いいねそれ」
下田「いいんですか? どんなメンバーでどんな曲紡いでたのか」
財津「どんなことやったんですかね…いやー、不思議です、本当にどうなってるかわかんない」

下田「お便りの続きでは、『ビートルズに魅了され憧れた財津さんが、なぜビートルズと同じ楽器編成のバンドを組まなかったのだろうという疑問を抱いていたのですが、甲斐さんの話を聞いて腑に落ちました』、と」
財津「なるほどね。当時はエレキギターを持って演奏してるミュージシャンも少なく、ビートルズをやろうとしてた連中もいたのかもしれませんけど、やっぱり物理的に時代的にできなかったんですよ。僕は、仕方なく既成の形態のスタイルでバンドやってたんです」
財津がやりたかったのは、キーボードの入ったビートルズ(のコピー)だったようで、当時はラウンジで弾いているピアニストを説得して、バンドでラジオで出演するときは、「ちょっとピアノを弾いてもらえないか」とか頼んでいた、という事のようだ。

財津「ビートルズのようなスタイル、最初は4人組でキーボード。レコーディングのときしか使ってなかったんですけども、5人以上の編成で(キーボードを含んで)やりました。本当に、あの頃は今と違いました。スピーカーを持ってステージのある会場まで自分たちで運んで…いわゆるPAシステムっていうんですけど、楽器も持ってアンプも持って…いや本当に時代変わりました、この50年で」

次回10月5日の放送は、通常通り18時15分(午後6時15分)からの予定です。
アルバムジャケットについてお話します。

財津和夫 虹の向こう側
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週日曜 18時15分~18時30分
出演者:財津和夫、下田文代
番組ホームページ

出演番組をラジコで聴く

※放送情報は変更となる場合があります。

自動車修理工場の女性社長が「自動販売機のハンバーガー」を開発

トラックなどのドライバーさんのなかには、昭和の頃は、よく幹線道路沿いにあった自動販売機のハンバーガーで、お腹を満たした経験がある方もいらっしゃることでしょう。じつは最近、令和版の「自動販売機のハンバーガー」がじわりじわりと増えているんです。今回は、この自動販売機のハンバーガーを手掛けている自動車修理工場の方のお話です。

ハンバーガー自販機と小林さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

東京・新宿から中央道の高速バス、または新幹線と飯田線の特急「伊那路」を乗り継いで、およそ4時間の長野県飯田市に「ガレージいじりや」という自動車修理工場があります。敷地内には、トヨタ・パプリカ、マツダ・シャンテをはじめ、昭和の車がズラリ。しかも、工場の前にある懐かしい自動販売機コーナーが目を引きます。

お店の代表・小林由季さんは、埼玉県出身の41歳。小さい頃、ちょうどミニ四駆が大人気だったこともあって、クルマに興味を持ちました。19歳でオートマチック車限定の運転免許を取ると、街を颯爽と駆け抜けていった、白い「マツダ・RX7」に心躍ります。

『カッコいい!あのクルマに乗りたい!!』

そう思った小林さんは、知り合いの自動車関係者に相談すると、軽くあしらわれました。「RX7? アンタ、あのクルマ、マニュアルだし、ロータリーエンジンって知ってるの? 乗りたいなら、自分で自動車が整備出来ないと、まず無理だよ」

愛車のマツダ・シャンテと小林さん

マニュアルもロータリーエンジンも、全くチンプンカンプンだった小林さんですが、乗りたい思いが高まって、マニュアルで免許を取り直し、自動車整備士を目指します。男社会の自動車修理工場で、厳しい試練を乗り越えて、見事、整備士資格を取得。縁あって信州に移り住むと、趣味で借りたガレージで、ノーマルタイヤからスタッドレスタイヤへの履き替えを請け負ったことをきっかけに、2010年、自ら自動車修理工場を立ち上げました。

やがて、工場のスタッフが昭和43年製・スバル360の修復を成し遂げたことから、小林さんも古い車に興味を持ち、旧車が続々持ち込まれて、車雑誌にも注目されます。あれよあれよと、旧車好きならまず知らない人はいない工場に成長。小林さんは雑誌連載企画で、旧車でレトロな自動販売機巡りをすることになりました。

ところが、ここで小林さんは大変なことが起きていたことに気付くんです。

『大きな道路沿いにたくさんあったハンバーガーやうどん・そばの自動販売機コーナーがどんどん無くなっている……』

24時間営業のコンビニエンスストアが増えた一方で、自動販売機は経年劣化、オーナーさんの高齢化も進んで、自動販売機コーナーは次々と姿を消していたんです。そんな折、小林さんはお祖父さまを亡くしたことで、小さい頃、自動販売機のハンバーガーをなかなか買ってもらえなかった記憶がよみがえりました。

『あの思い出の、自動販売機のハンバーガーを残したい。ならば、ハンバーガーを作っている食品メーカーを助けよう!』

自動販売機コーナー

そうひらめいた小林さんは、さっそく自動販売機用のハンバーガーを仕入れます。自動車工場の前に冷蔵機能付きの自動販売機と電子レンジを設置して販売を始めると、ちょうどコロナ禍と重なったことで、テイクアウトのニーズをつかんで大繁盛。各地のレトロ自動販売機で売れたハンバーガーのおよそ4倍を1台で売り上げました。

小林さんはもうイケイケドンドン、自動販売機を増やして各地で大人気となりますが、あまりの売れ行きにハンバーガーメーカーのほうが悲鳴を上げてしまいます。安定した納品が出来ないので、もう勘弁してくれませんか、と言われてしまったのです。代わる製造業者も無く、困り果てた小林さん、思い切りました。

『ハンバーガーを作ってくれる会社が無いなら、自分の会社で作ってしまおう!』

もちろん、小林さんは自動車整備士ではありますが、食品の知識は全くゼロ。体当たりで、様々な食品製造に関する許可や食品衛生を、片っ端から学んでいきます。食品部門の「いじりやフードサービス」も立ち上げ、ハンバーガーを作ってみましたが、パンはパサつき、肉の脂は溶け出し、レタスなどの生野菜は安全性の面で使えません。しかも、自動車修理工場と食品工場の二刀流で、睡眠時間3時間の日々が続きました。

ふんわりバンズのチーズバーガー

それでも試行錯誤を繰り返し、味やソースにもこだわったチーズバーガーに辿り着いて、安定した製造、出荷も出来るようになりました。今は、全国で39台の自動販売機が元気に稼働中。自動車修理工場生まれの自動販売機とハンバーガーは、各地域で話題になっています。

「気合と根性でやってきました」と笑う小林さんですが、やりたいことはいっぱいです。

「レストランもやってみたいですし、クルマのテーマパークがあっても面白いですよね。ハンバーガー片手にみんなに巡ってもらって。夢は大きく持てば、きっと叶います!」

「RX7に乗りたい」から始まった小林さんの夢、今はまだ、その途中です。

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