「閏8月」は不吉?4年に一度の2月29日に中国の「閏」を考える

2024年2月29日は、4年に一度の「閏日」。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長は同日、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演し、中国社会における閏に関する考え方を紹介した。

旧暦の閏年は「ドーンと」月単位

自分の話から始めて恐縮だが、私の誕生日は1960年(昭和35年)の2月28日。この1960年も、今年と同じ閏年だった。「閏年の2月29日生まれだと、誕生日が4年に一度しかない。かわいそうだ」といって、親がわが子の出生届を出す際、1日ずらして2月28日や3月1日生まれにするケースが、あったと聞く。

私ももしかしたら、本当は29日生まれだったのではないだろうか。子供の時、気になって母親に尋ねたことがあった。「生まれてくる予定日は2月29日だった」とか、「あんたは2月28日の夕方に生まれた」とか言っていた。2月29日が誕生日なら、みんなに覚えてもらえて、よかったかもしれない。

その閏の話。中国社会における閏に関する考え方を紹介したい。中国では春節が終わったばかりだ。春節は旧暦によるが、当然、旧暦にも閏がある。

まず、西暦の閏と、旧暦の閏の相違を、簡単に説明しよう。地球が太陽を一周するのに要するのは365日+0.2422日。太陽暦を使う国では、4年に1回巡ってくる閏年の2月に1日加えて、暦と季節の食い違いを調整する。2月最後の28日の後に1日加えて29日とし、それを閏日と呼ぶ。その閏日がある年が閏年だ。

一方、旧暦とは太陰太陽暦のこと。太陽と月の運行を基準にしたものだ。「月が満ちる」「欠ける」の単位で1か月とする。それが12回繰り返されることで12か月=1年としている。そうすると、旧暦の1年は、ふつう354日。太陽暦の365日より11日少ない。だから、調整のため、適当な割合で1年を13か月とする。閏日ではなく、月単位で、いわば“ドーンと”閏を設ける。

中国社会では特別な「閏8月」

ちょうど、きょうで終わる2月は、旧暦では正月(旧正月)があった。中国も太陽暦が一般的だが、一方で旧暦を重んじる。中国で「正月」といえば、太陽暦の1月1日より、旧正月=春節を指す。大型連休が設定され、故郷に帰ったり、旅行に出かけたりする人も多い。

旧暦のその閏月、最近では去年2023年がそうだった。旧暦なら「閏2月」というものが存在した。旧暦の2月に続いて、閏2月があった。「2月、閏2月、3月…」というわけだ。旧暦に従い、閏2月となる年もあれば、別の月に閏月のできる年もある。たとえば、閏5月とか閏7月とか。

中国社会における閏の話だが、この閏月の中でも一部に残る「特別な閏月」というものがある。それは閏8月だ。先ほど説明したように、旧暦で8月が2回ある年。古い慣習が残る中国の農村などでは、いまだに迷信がある。閏8月には昔から大きな災いがあるとされてきた。

実際に大きな災難も起きている。1976年、今から48年前の年に閏8月があったが、中国にとって激震の年だった。今の中国をつくった毛沢東、周恩来、それに朱徳という3人のリーダー、巨星が相次いで死去した。周恩来の死去に際しては、北京の天安門広場に捧げられた周恩来追悼の花輪を当局が撤去したことで多数の市民が抗議、騒乱となった。

この年には自然災害も起きた。77月、河北省の唐山という都市で大地震が起き、中国当局の公式発表で25万人が死亡した。政治でも、自然災害でも、大きく揺れた閏8月の年だった。

その次の閏8月は1995年。その翌年の1996年に、台湾で初めて、有権者の直接投票による総統選挙が実施されるということで、中国と台湾の関係が極度に緊張した。台湾の民主化が進み、中国と台湾の距離がさらに深まる、と中国側はいきり立った。

中国側は1995年の夏から、台湾海峡や台湾の周辺で、ミサイルの発射演習を繰り返し、台湾を威嚇した。1996年3月の選挙前には、アメリカの航空母艦2隻が台湾海峡を通過して、中国側に警告を発した。アメリカを巻き込んで、あわや戦争勃発かの事態となった。

1995年といえば、阪神・淡路大震災が起きた年だ。日本で起きた地震であっても、中国の人たちにとっては「やはり閏8月の年は、大きな災いが起きる。忌まわしい年だ」と考え、迷信をさらに信じてしまった市民も多い。

阪神・淡路大震災が起きたのは1月。「自分の国でもこの閏8月の年に、大きな地震がまた起きる」という庶民の不安を打ち消そうと、中国政府やメディアは、「迷信を信じるな」と繰り返し呼びかけた。

約30年後の中国社会で迷信は?国際的地位は?

次の閏8月が巡って来るのは28年後の2052年とかなり先だ。旧暦を重んじる中国人だが、中国社会もその頃には大きく変わっているだろう。ただ、西暦の正月ではなく、今と同じ旧暦の正月、旧正月=春節に、新年を祝う風習は残っていると思う。

「閏8月のある年は、不吉な年」という迷信は、残っているだろうか。次の閏8月のある2052年といえば、今の中華人民共和国の建国から103年目。つまり、その3年前に100周年を迎えている。国際社会の中で、どのような地位にあるのか、その時の政治指導者がどのような指針を示し、施策を行なっているのだろうか。

拡張路線を歩む中国と、旧来の習慣や考え方を色濃く残る中国。そのコントラストを、旧暦の閏、とりわけ閏8月という視点でとらえてみると、興味深いかもしれない。

◎飯田和郎(いいだ・かずお)
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

田畑竜介 Grooooow Up
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分
出演者:田畑竜介、田中みずき、飯田和郎
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※放送情報は変更となる場合があります。

補欠選挙の結果を分析。「保守王国」と呼ばれる島根に変化が?

4月29日「長野智子アップデート」(文化放送)、午後4時台「ニュースアップデート」のコーナーでは政治ジャーナリストの角谷浩一さんに、4月28日に行われた補欠選挙の結果を解説してもらった。この記事では島根1区に関する部分をピックアップする。

長野智子「選挙区ごとに分析などいただければと思います。まずは唯一の与野党対決となった島根1区です」

角谷浩一「亀井(亜紀子)さんは一度現職もやられていたので返り咲きということになりますが、島根が『保守王国』といわれますよね。1区はずっと細田(博之)前衆議院議長が地盤を守っていて」

長野「小選挙区制度の導入以降、ずーっと。勝ち続けた」

角谷「2区は、もう亡くなりましたけど竹下亘さんがずっと議席を持っていた。つまり保守王国というより、細田さんと竹下さんがずっとやっていたと。ある意味で当たり前だった。それがお二人ともご存命でなくなって、時代が変わってきて、新しい人が。それも自民党の人が引き継ぐものだと思っていたら、こんなことに、と。細田さんがお亡くなりになったための選挙ということで、自民党も候補者を立てました」

長野「はい」

角谷「ただ細田さんは(旧)統一教会との関係が取り沙汰されたり、じつはセクハラ問題というのがあったり。それに安倍派を細田さんはずっと守っていた、ということも。いま問題になっていることを全部抱えていた、みたいな問題があった。お亡くなりになったので自民党は候補者を立てたけど、そんなに簡単ではなかった、ということ」

長野「きちんと説明されないまま、亡くなられてしまったわけですね」

角谷「今回負けたけど、次はもう有権者は自民党に帰ってくる、という声も地元にはあるんだと思います。今回も県会議員がほとんど動かなかった、という話もありました。一方で世論調査、事前のいろんな調査ではかなり引き離されていて、亀井さんが強かった。でも(岸田文雄)総理は2度入ったんですね。最後の土曜にも入られると。総理が最後に入るのは、逆転できそうなとき、というのが不文律でした。数字の差が既にあるのに、総理は入った」

長野「はい」

角谷「これは岸田さんの独特なやり方というかな。突然、政倫審に出ると言う、派閥を解散すると言う……。岸田さんは誰かと相談して揉んで決めるというよりは、直感的に決められるんですね。島根1区は自民党が唯一出していたところだから、小渕(優子)選対委員長はずっと張り付いていました。国会開会中でしたけど、ずっと」

長野「はい」

角谷「岸田さんは2度も入った。茂木(敏充)幹事長は入らなかったんですね」

長野「それはなぜですか?」

鈴木純子(文化放送アナウンサー)「岸田さんとの仲が微妙だという話も……」

角谷「ただ選挙に勝てば微妙どころか、戦うところで『茂木さん、よくやった』となりますよ。一生懸命、入らなかったというのは、幹事長自らが諦めていたんじゃないだろうか、とか。もっと言うと第一声。泉健太立憲民主党代表は、初日に島根で第一声、声を上げているんですね。ところが茂木さんは行かなかったと」

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