“CDアーティスト世界第1号”ビリー・ジョエルが日本人に愛される理由

音楽プロデューサー・松尾潔氏

きょう5月9日は、ビリー・ジョエルの73歳の誕生日。ビリー・ジョエルといえば、CDで発売された楽曲として世界第1号のタイトルを持つアーティストで、とくに彼のメロディーは日本人に愛されている。RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演した、音楽プロデューサー・松尾潔さんにその理由を聞いた。

日本のメーカーが開発に加わったCD・だから世界第1号に

田畑竜介アナウンサー(以下、田畑):きょうはビリー・ジョエルの誕生日なんですか?

松尾潔さん(以下、松尾):はい、73歳ですね。ビリー・ジョエル、私が彼の楽曲を初めて聴いたのは高校生の頃だったかな。すごく大人で都会的な香りのするミュージシャンだなという印象を持ちましたね。おそらく多くの50代以上の人たちにとって“初めて手にした洋楽アーティスト”ではないでしょうか。僕が中学生、高校生のときは「洋楽を聴いている」という人の半分ぐらいはビリー・ジョエルを何かしら聴いていたんじゃないかと思います。

田畑:「オネスティ」「ストレンジャー」など、CMでもよく起用される音楽でしたよね。

松尾:当時、アメリカのコロムビア・レコード(現ソニー・ミュージック)の看板アーティストだったので、80年代から親会社であるソニーのステレオコンポのCMで使われることも多く、日本人にとってなじみのあるアーティストになっています。ただ、ビリー・ジョエルがどうやって日本で人気を浸透させていったかというと、1982年に誕生したCD=コンパクトディスクなんです。

松尾:世界第1号の音楽CDが、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」ってアルバムなんですよ。CDの開発は日本のソニーと、ヨーロッパのフィリップスという2つのメーカーが共同でやったわけですが、日本は大きなマーケットであると同時に開発国でもあったんですね。だから世界初の音楽CDは日本から出たんですよ。

松尾:1982年10月1日、ソニーや日立から一斉にCDプレーヤーが発売され、当然そのソフトも同じタイミングに用意されました。ソニー系列から50タイトル、日本コロムビアから10タイトル出たんですが最初に生産されたのは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」という、1978年に発売されて世界的に大ヒットしていたアルバムだったんです。

松尾:これでビリー・ジョエルは“CD第1号アーティスト”という不滅の名声を築いたのと、CDプレーヤー買った新しいもの好きの人が「ビリー・ジョエルでも買っとく?」「レコード持っているけど、CDでも買っちゃう?」ということで、ビリー・ジョエルの名前が深く浸透していくきっかけになりましたね。

田畑:第1号になったのには、何か理由があったんですか?

松尾:やはり、洋楽アーティストとして当時、ファーストプライオリティだったってことですよね。70年代の終わりにグラミー賞の常連になって、そのタイミングでのCDの開発だったので。

日本人に受け入れられる「一筆書きのようなメロディー」

松尾:ところで、そのときのソニーを代表するアーティストということで当然、日本側のアーティストもいるわけですけど、日本のCD第1号は誰か知っていますか?

田畑:大滝詠一さん。

松尾:そうですね。つまり2人が“良質のポップミュージックの代表”だったってことですね。ビリー・ジョエルはニューヨークの出身ですが、都会の哀歓や都市生活者の悲哀、そういうのを描くのに大変長けていて、メロディーも美しいし、ボーカリストとしても伸びのある高音で人気を博しました。「オネスティ」はアメリカよりも日本で受けた曲のひとつです。

田畑:日本って、ビートよりもメロディーの方が受け入れやすい文化で、そこにハマったっていうのがあるんでしょうね。

松尾:アメリカのビリー・ジョエル。イギリスのエルトン・ジョンって感じですかね。

田畑:「オネスティ」のメロディーの抑揚とかはすごく胸を打つ響きがありますよね。

松尾:「一筆書きのようなメロディー」って言われることが多いですけれど、ブレスの位置も独特で、スタジオ録音なのにライブを聴いているような気持ちにさせてくれる。息使いを感じさせるコーディングですよね。この曲はアメリカでは最高位24位、トップテン入りはしていないんですが、日本では大変人気があって、日本人好みでもあるし、実際いろんな人たちがカバーしているんですね。たとえば島津亜矢さんもその一人です。

松尾:本当に空気が一変するような美しいメロディーですよね。島津さんは松田聖子さんの歌のカバーも絶品なんですが、彼女が歌うことによって、ビリー・ジョエルのメロディーが日本で愛された理由もよくわかる。素晴らしい翻訳者の役割も果たしているような気がします。

田畑竜介 Grooooow Up
放送局:RKBラジオ
放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分
番組ホームページ
公式X
公式Instagram

出演番組をラジコで聴く

※放送情報は変更となる場合があります。

亡き親友との約束胸に「スタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい」

プロ野球をはじめ、先日のメジャーリーグ開幕戦、そしてサッカーのJリーグでもよく目立つのが、巨大なフラッグによる応援です。今回は、このスポーツ応援に欠かせないビッグフラッグを染め上げている男性のお話です。

影山洋さん

それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。

日本一小さな市・埼玉県蕨市に、一軒の工房があります。有限会社染太郎、スポーツの試合で現れる大きな旗を作る会社です。トップは、影山洋さん、昭和30年生まれの69歳です。

蕨出身の影山さんは、小さい頃は空き地で友達とサッカーボールを蹴ったり、お小遣いがたまると後楽園球場へ行って、王さん・長嶋さんの野球を見て育ちました。そして、百貨店で催事のお知らせをする巨大な垂れ幕を作る会社に勤めます。

仕事に脂がのってきた30代のある日、影山さんは小さい頃のサッカー仲間で、当時の読売クラブに在籍していた奥田卓良選手から、こんな話を聞きました。

「今度、日本でもサッカーのプロリーグが始まるんだ。絶対応援してくれよ!」

「だったら、ヨーロッパみたいに、おっきな応援フラッグを作って、応援するよ!」

影山さんがそう答えて迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕の日。国立競技場の熱狂の渦のなかに、奥田さんの姿はありませんでした。奥田さんは不慮の交通事故で、Jリーグを見ることなくこの世を去っていたのです。

『奥田との約束を守るためにも、日本のスタジアムを応援フラッグでいっぱいにしたい!』

そう思った影山さんは、会社勤めを辞め、自ら応援フラッグを作る会社を興します。地元・埼玉の浦和レッズの熱いサポーターたちとつながると、話が盛り上がって、今までにない幅50メートルのビッグフラッグを作るプロジェクトが始まりました。

影山さんが手掛けたビッグフラッグの数々

参考になったのはもちろん、影山さんが長年培ってきたデパートの垂れ幕のノウハウ。パソコンもあまり普及していない時代、設計図を元に1枚1枚刷毛で塗る手作業でした。ただ、ビッグフラッグを作っても、出来栄えを確かめられる広いスペースもなければ、対応してもらえる競技場もありませんでした。

ようやく人前で披露できる環境が整ったのは、2001年のJリーグ・レッズ対マリノス戦。埼玉スタジアム2002のこけら落としの試合でした。影山さんたちがドキドキ見守る中、ピッチに大きく真っ赤なフラッグが広げられると、スタンドからは「オーッ!」と地鳴りのような歓声が沸き上がりました。

翌日から、影山さんの会社の電話は、様々なチームからの問い合わせで鳴りやまなくなりました。

「私たちもレッズみたいな、熱い応援をしたいんです!」

数ある問い合わせの中に、情熱のこもったメッセージを届けてくれた人がいました。それは、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの応援団の方々でした。影山さんは、競技の違いを乗り越えて、新しい応援スタイルが広まっていくことに、喜びを感じながら、さらに大きい幅75メートルものビッグフラッグを作り上げました。

このフラッグが、千葉・幕張のスタジアムの応援席に広げられると、今度はプロ野球チームの関係者からの問い合わせが相次ぎました。こうしてサッカーではレッズ、野球はマリーンズから始まったビッグフラッグによる応援は、今や多くのスポーツに広まって、当たり前の存在になりました。

蕨市の盛り上げにも活躍する影山洋さん

そしてこの春、影山さんは、東京ドームで行われたメジャーリーグのカブス対ドジャースの開幕戦でも、大役を任されることになりました。それは、初めての国旗。試合開始前のセレモニーで使われる、幅30メートルの日の丸と星条旗の製作でした。

国のシンボル・国旗に汚れを付けたり、穴を開けたりすることは決して許されません。3月10日に納品した後も、影山さんは毎日毎日東京ドームに通って、抜かりのないように、細心の準備をしました。そして、メジャーリーグ機構の厳しいチェックもクリアして、開幕当日を迎えます。

ベーブ・ルースから大谷翔平まで、日米の野球・90年の歴史の映像が流れて、無事に大きな日の丸と星条旗が現れると、影山さんも胸が熱くなりました。

『あの王さん・長嶋さんが躍動した後楽園球場を継いだ東京ドームで行われる、かつてない野球の試合で、自分の本業で関わることが出来ているんだ!』

そして、このメジャーリーグ開幕戦の興奮も冷めやらぬなか、今度はサッカーの日本代表が、8大会連続のFIFAワールドカップ出場を決めました。実は影山さんには、まだまだ大きな夢があります。

「いつか、サッカー日本代表がワールドカップの決勝戦を迎えた日の朝、富士山の近くで、おっきな富士山をバックにおっきな日の丸を掲げて、選手にエールを送りたいんです!」

亡き親友への思いを胸に生まれた、日本におけるビッグフラッグによるスポーツ応援。その応援文化のパイオニア・影山さんの夢は、きっと叶う日が来ると信じて、さらに大きく膨らみ続けます。

radikoのタイムフリーを聴く

Facebook

ページトップへ